古本やさんのおもひで

電気ブラン

 引き続き須藤真澄から何ほどか思い出しての文章であります。

 昨日のを御覧頂いた方はどう思われたでしょうか。冗漫な文ですね、我ながら。自分の好きをコントロールできないというのは、つまり私がまだまだ子供である証拠なのです。自我を制御出来ていないっちゅうことね。大人になりゃいいってもんでもないんですが、それでもねぇ。

 さてさて、写真は斯くほどまでに敬愛する須藤真澄先生の処女作『電気ブラン』です。(電気の気の字は本来旧字体ですが、表示できんとイカンので新字体にしてありますです)。ん〜この本を手に入れるのは大変でした。あたくしが須藤真澄を好きになったのが本屋さんでたまたま手に取った『アクアリウム』がきっかけで、それから他の作品も探すようになって、当時は復刻前の『子午線を歩く人』『観光王国』なんかが手に入って、ますますハマっていったのですが初単行本の『電気ブラン』が本屋さんに置いてない。取り寄せようとしても版元品切れ、つまり事実上の絶版になっていて手に入れる事ができない。読めないとなりゃ、ますます読みたいってんで古本屋巡りが始まったのです。もともと古本屋さんは好きだったしね。

 今はホントに便利な時代になりました。古本はとりあえずインターネットで探せます。値段さえ気にしなければ大抵の本が手に入るようになりました。凄い事です。んでもね、そんなのここ10年の事ですよ。それまでは足と人脈、それしかなかったんですね。

 結論から言いますとね、2年近くかかりましたよ『電気ブラン』を手に入れるのに。場所は板橋区のとある古本屋でした。今でも見つけたときの感動を覚えています。思わず声が出ましたよ「あった!」ってね。入り口を入ってすぐ右手の本棚の右下でしたっけ。ちょっと珍しい漫画が固められているコーナーで、ジャンプコミックス最新刊しか読まないような方にはゴミ溜めみたいなコーナーですね。そこにひっそりとありました。本当に欲しい物があったとき最初にする事は手に取る事じゃないのね、先ず周りを見回すんです。他に狙ってる奴が居るに違いないと思うからでしょうか。犬猫もそうでしょ、何か食べる時に一瞬辺りを見ますよ、隙を衝かれちゃいけませんから。

 あの感覚、うん。

 息が詰まってね。恐るおそる手に取るんです。本当に本当かを確かめます。ぬか喜びだったらどうしようかとチョイ怯えながら。ここまでやってようやくレジに持っていきます。で、いそいそと帰って読むんですよ。素晴らしい漫画ですよ『電気ブラン』は。ただし見つけた感動が大きすぎて、読後の記憶は薄いのです。2年越しの片想いが叶ったんですから仕方ないっちゃ仕方ないんですが。それほど苦労した『電気ブラン』もいまでは復刻されて随分手に入れ易くなりました。旧版だってネットで検索すればあっという間に見つかります。

 試しに検索してみたら三件も見つかりました。値段も相応です。便利ですよ。でもこれでは、あの震えるような感動は味わえないんですね。残念ながら。苦労して入手した物の方が大事にしますよ。

 あの古本屋さん、まだあるかしら。もう何年も行ってません。今度行ってみっかね。その古本屋では吉田智恵男・著『もう一つの映画史 活弁の時代』も購入してます。こちらは大学時代に買った本で、その時には本当の価値が解りませんでした。懐かしい思い出であります。
 
 弁士になってみると必携の書なんですね。弁士としてこの本を持ってなきゃマズイぞ、という。
 
 そうだ、書いていて思い出した。古本といえば大学2年の時に伯父が亡くなったのよ。その伯父の告別式の帰りにお寺さんの近所に有った古本屋さんにフラッと入ったんです。するとそこには『圓生全集』別巻上中下の揃いが置いてあるではありませんか。その時はお金が無かったか、あるいは告別式の日に古本屋とは流石に不謹慎だと思ったのか、とにかく買いませんでした。たしか洋光台駅の近くの古本屋でした。そいで、それから半年してその古本屋に行ったんですね。有りましたよ『圓生全集』別巻上中下が、ナイロン紐で縛ったそのままの形で。値段は確か5000円だったと思います。特別高いって程じゃない。寂れたお店でしたね。都内だったら半年もこの本が残ってはいなかったでしょう。昼間なのにね、店内が暗いの。本を守ろうとして暗くしてるんじゃないの、絶対に。

 レジにお目当ての『圓生全集』を持って行きました。「この本を半年前に見て、今日買いに来たんですよ」と声をかけたら「それじゃ半年売れなかったってことだね」なんてましたっけ。

 そういう訳ですので欲しい物があったら出かける事、そして嬉しさの余り店員に話しかける事、この二点を実践してみて下さい。人生ほんの少し豊かになります。あ、骨董市でレコード漁りながら古道具屋の親父と話をするのもオツですよ。

 また今日も冗長な文章だなぁ…。

『庭先案内』『どんぐりくん』

庭先案内 どんぐりくん

 あたくしの基本的な感覚というものは多分高校時代に形成されたのではないかと思っているのです。落語もそのとき出会ったし、読書を好むようになったのも高校時分だし、酒を嗜む様になったのも何だかんだいってそうだし、ヒネクレ者だったのは根っからですが、よりヒネクレたのは高校時代であります故、やっぱり思い返してみると高校時代は自分にとって大きかったなぁと思うのです。思うだけですが。

 そんな具合に思い返す高校時代に出会ったのが須藤真澄まんがでありまして、これは純粋にいまだに好きな漫画家さんであります。あの当時好きだった物が今でも好きと言うのは、とりもなおさずあの頃の自分と今の自分がまぎれも無く地続きであるのだと確認させてくれるのです。過去と今が繋がっていると認識するのは実はとても難しい事だと思っています。だってそうでしょ、今朝の私が昨日の私である保証なんてどこにも無いのです。人間を構成している物質の大部分は水ですが、その水だって2週間もあれば入れ替わってしまうのです。てことは2週間前の片岡一郎と11月2日の片岡一郎が同一人物であるとする根拠は薄弱であると考えてしまうのも無理からぬところがあるのです。きっと。

 我々は立ち位置を失っては生きていけません。ここにいれば自分が自分でいられる場所を恐るおそる薄氷を踏むような気持ちで確かめているのが我々の人生と言っても良い。一度権力を手にした人が容易にその椅子から降りられなくなってしまうのも畢竟、自己を確認する手段が失われてしまうのが恐ろしいからなんだと思います。

 てなことをグズグズ言うくらいですから、オイラは常に自分のアイデンティティを何処に確保するかで頭の中が一杯なのです。現在は活動写真弁士という仕事にその大部分を依拠しているような気がしているのですが、ときどき、いえ頻繁に不安になるのです。それは弁士という死ごとの不安定さが原因ではなくて、現在というものの不安定さが原因であると考えるべきでしょう。現在は常に過去に飲み込まれています。この瞬間も現在は絶え間なく過去になり、未来であったはずの時間も現在という刹那を経てあっという間に過去になってしまう…。いささか認識がロマンティック過ぎますが、まあでも現象としては実際に起こっているんだから仕方ないんだ、うん。てことは、その仕方ない事実を考えると、我々は立脚点を過去に求める必要が出てくるのです。(論理が飛びましたね。いいんです、この中間をやると文章がとんでもなくながくなる)過去を振り返る、なんていうとネガティブなイメージが付きまといますが、決してそんな事はないのです。過去からしか人間は自己を認識できやしないのですから。

 山登りでもマラソンでもいいのですが、大概目的地に到着するまでの間に目印が幾つもあります。何キロ地点だとか、何合目だとか。他人が作った物でなくたって長い距離を歩けば、その人毎に目印や記憶に強く残る地点があるだろうと思うのです。逆に言えばそれらの地点=ポイントを繋ぐ形で記憶は形成されているんであって、それまでの道にあった物や事をまんべんなく憶えている人はまずいません。これは生きていても同じような事で、いくつかのポイントを自分で刻んで、そのポイントを繋ぎ合わせて自己の確認をしている訳です。

 んで(長かった)アタイにとってポイントと言えるものの一つが須藤作品なんですね。この方の描く世界は独特です。物語が独特ですし、絵も独特。須藤真澄先生の絵は「一点鎖線」なんて言われてます線がね・−・−・−←こういう風にツーテンツーテンしてるのです。誰が見ても須藤真澄の絵だと判るんです。でも特徴的なだけでは無くて、基本がちゃんとできた上での特徴であり個性なのです。そういうのが好きなのね。今は個性が尊ばれる時代です。学校に行きゃあ「個性を大事にしましょう」ってやたらに言ってます。でも個性って何なんだと。そんな事の前に教える事がある気がするのです。個性なんて放っといたって芽生えるんです。大事にするのと野放しが混同されてますやね。芸人だってね、キャラだの何だのってのが多くてさ。個性の前にする事あんでしょと思わんでもないのです。いえ、良いんですよ、個性で押していっても。ただ自分は基本が出来た上での個性がある人が好きなのです。では、基本ってなんだって事になると、こりゃまた難しい問題でありますがね。その話はまたいずれ。

 とまぁ。こんな事を考える一つの基点が須藤真澄作品なのですよって話。早い話がファンなのです。漫画が好きで須藤真澄を読んだことのない方は是非読んでみて頂きたいと思います。漫画喫茶には置いてないので自分で買って読むよろし。自分で時間とお金を割くって大事よ。きちんとお金を払って買った本の内容の方が覚えてるもの。映画もそうで映画館で見た映画の方がビデオで観た映画よりも憶えてますよ。昨日、ドリュー・バリモアの話になってね、作品リストを見るまで『エバー・アフター』を観た事忘れてたものなぁ。悪くない映画だったのに。

 ウチには須藤先生のサイン本が有ります。このサイン会にもエピソードがありまして、須藤先生はファンの為に一人ひとり違った絵を描いてくれるのです。自分の名前だけだって誰も文句を言いやしないのに。ファンにとっては素敵な方です。もっとのサイン会を主催している本屋さんにとってはいつまで経ってもサイン会が終わらないわけですから、本屋さん自体が須藤ファンでないとチトきつかったりもしますけど。

大人の科学 VOL.15

大人の科学 VOL.15

先月末にでた雑誌です。ちょいと紹介。

 「大人の科学マガジン」の15号です。大人の科学で一番注目を集めたのは自宅でプラネタリウムが造れるキットが付いていた号でしょう。早い話が少しお金に余裕の出てきた層に対して売っている学研や進研ゼミとでも表現すれば解りいいかもしれません。発売元は学研なのでこれまで培ってきたノウハウを生かすにはもってこいの企画ですね。

 15号は、ぬぁんと紙フィルム映写機が造れてしまいます。一般にフィルムといえば半透明の誰もが思い浮かべるアレを指します。ところがかつて日本では紙製のフィルムが家庭用に販売されていたのです。紙ですから当然、光は透過しないのです。そこで紙に光を反射させて映像を投影する仕組みなのが紙フィルムでした。このフィルムの凄いところはなんとカラーの映像だったという点です。光量は弱い為劇場では使えなくとも家庭ならカラーの映像が楽しめたのです。昔の日本は。

 そんな映画関係者でも存在をあまり知らない紙フィルムを復刻させるとは学研の英断と言わざるを得ず、真に快挙でありまして、活動写真に関わる人間は皆でこの号を買って売り上げに貢献すべきだろうと思っておりますが、いかがかな皆の衆。

 この号には、実はある活動写真弁士が紹介されています。彼の名前を小崎泰嗣さんと言って、私の得がたい友人なのであります。友人だとはこっちが勝手に思っているだけで、小崎さんはどう思ってるか…。でも素敵な方です。いつか仕事を一緒にしたいと願っているのです。誰か企画してくれればいいのですが。

 小崎さんは活動写真弁士でありますが、そんじょそこらのベンシではありません。アタシ如きとは格が違う。何しろ手廻し映写機を自分で廻しながら玩具フィルムに語りを付ける、しかも伴奏音楽はSPレコードをその場でかけるという、奇跡のような存在なのです。こんな人がアタシと同年輩なのです。世界は広い。

 しかも小崎さんと共にカイロプティック商会を組織し活動されている松本夏樹先生という方が、輪をかけて凄いのです。松本先生は大阪芸術大学・武蔵野美術大学の非常勤講師をされていて、十代の頃からン十年玩具フィルムを収集し続けている、国内屈指のフィルムコレクターなのです。先生のコレクションには日本最古のアニメフィルム『活動写真』も含まれます。

 アタシはこの『活動写真』の上映を観てます。自慢なのです。

 玩具フィルムってなんじゃらホイという方の為に、簡単に説明しますと、当時、お金持ちをターゲットにして家庭用の小型映写機が発売されておりまして、その小型映写機用に様々なフィルムも発売されていたのです。これが玩具フィルムです。内容はといえばオリジナルのアニメもありましたし、劇場で上映された作品のハイライトシーンを部分的に複製して発売したものもあります。当時はこうしたフィルムと映写機を使って活動写真ごっこがなされていたのです。映画が必ずしも映画館のみで供給されていた訳では無いのだと言う事を我々は抑えておく必要があります。さらにこうした玩具フィルムの貴重な点は、本体の映画が失われてしまって、玩具フィルムにおいてのみ観ることのできる作品が少なからず日本映画には存在するという事です。日本映画の残存率の低さは度々取り上げていますし、これからも書くでしょうが、壊滅的とも思える日本無声映画の映像を僅かながら玩具フィルムは今日に届けているのです。玩具フィルムとはそうしたモノなのです。いずれもっと詳しく書こう。今決めた。

 とまあ、かくも貴重なコレクションを有している松本先生と小崎さんが組んで玩具フィルムや幻燈を中心にして上演活動をされている事は、私はとても嬉しく、また今後、活動写真に対して注目を集める際にきっと必要な存在になるであろうと確信している次第。

 それはともかく、是非「大人の科学」を買って紙フィルムを上映してみる事です。弁士にかぎらず多くの人が、です。映画がこんなにも一般的な娯楽なのに、映画ってどうして動くのか、構造を理解している人は少ないと思います。しかもこれからはフィルムでなく、デジタルデータで映画が配給される時代になって行きます。ますます我々は映画の仕組みから遠ざかってしまうのです。それはチト寂しい事ではないでしょうか。

 微力ですが小崎さんのHP「たいじこざき」のご紹介http://www.kozakitaiji.com/

 弁士列伝の現代篇もやろうか…、よそうネ、色々カドが立つといけないもの。

 でも誰かがきちんと現役弁士全員に聞き取りをしておくべきだとは思います。それはアタシでは出来ない事なのです。片岡一郎は現役弁士の連絡先をほぼ全て知ってますが、いろいろとしがらみがあるのです。おおっぴらには出来ないし、したくない存在も居る。だから、誰かが全員にやって欲しい。現役弁士に聞き取りがしたい人は手伝ってあげる。

名人

名人 小林信彦

 『名人 志ん生、そして志ん朝』小林信彦 
 
 電車で読む本が無かったので急遽購入して読んだ本。

 アタシは志ん朝師匠には間に合ってます。ただそんなに多くの高座には接してません。まだまだお元気で、いずれ志ん生も襲名するのかな、と思ってました。焦って聴きに行く事もなかろうと甘く見てたんですね。だから驚きました、志ん朝師匠がお亡くなりになった時には。思わず声が出ましたもん。

 亡くなってしまった以上、どう望んでも実物に触れる事は叶いません。その人の記録を見聞きし、その人について語られる言葉に耳を傾けるしかないのです。特に本人が記録を余り残していない場合は、他者の言葉は非常に大きな意味を持ちます。しかし、そうした言葉の中には「俺は○○を良く知ってるんだ」式の優越感を多分に含んだ自慢話も少なくありません。少なくないのですが、まぁ仕方の無いことでしょう。アタシもいずれやるでしょうし。

 とはいえ、どうしても合わない意見があるのも事実でして、本書がつまりそうだったのです。著者が志ん朝師匠にいたく傾倒してるのは伝わってきます。その気持ちは解ります。それだけ強い魅力を持った師匠でした。ただ、本として出すには好きが過ぎます。雑誌に載せるコラムらな良いでしょうが、落語本として出すには未整理な思いを重ねた文章が幾つも並ぶ構成は鼻につくし、チト冷めます。

 よ・う・す・る・に、この本の内容には共感しかねるって事なんですけどね。一芸人、一落語ファンとしてはどうしても共感できない。読み進めていくうちに何に拒否反応を示しているのかが明確になってくるのです。以下『』内、引用。


 『「歌笑純情詩集」なるふざけたモノローグは、一度は笑えても、あたが続かない。歌笑が突出したのは、他が混乱していたからで、歌笑、痴楽、小きん(のちの五代目小さん)が若手三羽烏だったというから、レヴェルが低い』

 『テレビで桂米朝が、
 「東京の落語界は、ずいぶん淋しくなるでしょう」
  と言っていたが、言いかえれば、東京落語は終わったということである。』

 『関西の落語界は桂米朝という指導者のもとで、これからのびてゆくのでは、と思われる。
  しかし、東京はムリだ。江戸弁といわぬまでも、東京弁(アクセントほか)が怪しい人々がいくら集まっても大衆を魅了するこつはできないのだから』

 『地方から出てきた学生が、オチケンに入ると、まず、方言、訛りを抜かなければならない。その上で東京言葉とはいわないまでも、標準語を習得する。落語のどこがすばらしいのか、よくわからないから、理屈を考える』

 悪い部分ばっかり抜いてます。実際はもう少し読める本です。ただ、この人、評論家ですぜ。歌笑の人気を戦後の混乱だけで片付けるのは余りにも乱暴ですし、「淋しくなる」がどう言い換えたら「終わった」になると言うのか。米朝師匠こそいい迷惑だろうと思うのです。贔屓の芸人が世を去って何を思おうが自由ですが、少なくともこんな程度の考察で金を取ってはイカンと思うのでアリンス。

 志ん朝師匠は後進の指導に力を入れていたそうです。

 志ん朝師匠が亡くなった時に「志ん朝死して落語は死んだ」という的外れな記事が少なかった事はファンの喜びでした。

 それなのに、志ん朝ファンを自認する著者が得意になって志ん朝師匠の死と江戸落語の終焉を結び付けている事に堪らない寂寥感を感じるのです。アタシはこの場所で活弁界について愚痴々々言ってますが、それは活弁が何とかなると思えばこその発言です。少なくとも10人や20人は食えるだけの内容は活弁と無声映画は持っています。だから愚痴るのです。ただ好きな芸人が死んだと言うだけで、その芸能が終わったなどという文章は日記帳に記すべき物です。繰り返して言います、こんなんで金取るな。ああ、羨ましい。ああ、悲しい。

Deep Love アユの物語



 何をいまさらな本ですが、旬を過ぎた本を読むのが好きなのです。しっかし久々に辛い読書をしました。内容とか文章とか、色々あるんスけどね。電車で読んでて気分悪くなりました。不快感ではないです、乗り物酔いみたいになったのです。

 それ、ただ酔っただけでしょ。

 違うのです。『キリスト教概論』を読んでも京極夏彦を読んでも、講談全集『野狐三次』を読んでも酔った事はありません。『Deep Love』にやられました。続編が何作か出ています、んが、とてもじゃないが読めません。何というか小説になってないのですよ。普通、といってはいけないかもしれませんが、アタシの認識している小説というのは作者が伝えたい事があって、それを物語に託すのです。ところがコイツは物語に託さず、登場人物がテーマをヌケヌケと語ります。あまつさえ地の文でも被せるように人物の心理を解説します。

 読者の入る余地がねぇ。

 これが偽らざる感想です。著者はあまり本を読まない方なのかもしれません。文章が小説ではなく歌詞を読んでるような感覚になるのです。まぁ、そんな本があったってそりゃ良いんですが、問題はこれが大いにヒットしたっちゅうコトにあるんですよ。シリーズで270万部突破だそうです。借りて読んだ人もいるでしょう、古本って人もいるでしょう。大変な人数です。そいでまた大変な人数のある程度以上のパーセンテージが感動してるんです。だってね文章、下手なのよ。中学生が書いたのかい?って言いたくなるよ。どんなに素晴らしいテーマでも伝える方法が未熟なら伝わらないのが道理です。なのに大勢の人が感動している。ってことはその人達もおんなじ程度の文章力ってことです。危険ですよコレは。英語教育なんぞやっとる場合ではありません。日本語教育を徹底するべきです。日本語クライシスです。全国の国語教師は必読書といえましょう。自分の生徒がこの文章で感動してるとなれば何とかして名著に触れさせたいと思うはずであります。

 けなしてばかりは良くありんせん。ちょいと考えてみましょう。

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プロフィール

Author:片岡一郎
ご用命・その他
syoseibusi@yahoo.co.jp まで

公演情報
●あるぽらんキネマ劇場Vol.33 片岡一郎・和田カヨ二人会
 『野ばら』(1932年 聯華影業公司)・朗読
 出演/片岡一郎・和田カヨ
 日時/8月10日 15時〜
 会場/阿佐ヶ谷あるぽらん'89 予約制先着30名
 料金/\2,000(1ドリンク付)
 ご予約/03‐3330‐8341(18:30p.m.〜2:00a.m.)
       aruporan@nifty.com

●百物語の夕べ ー第4回 怪談話と西洋怪奇映画ー
 三遊亭圓馬 怪談話『佐賀の夜櫻・鍋島猫騒動』
 片岡一郎   活動写真『カリガリ博士』
 日時/8月16日 18時〜
 会場/向島百花園 御成座敷
 料金/¥4000(お飲物付き・入園料込み)完全事前申込み制
 申し込み方法/お電話、FAX、メールのいずれかで、お名前、ご住所、お電話番号、参加人数をご連絡ください。
           受付確認後、下記指定口座へ会費のお振り込みをお願いいたします。
 電話・FAX/03−3619−4997
   メール /100ss@myad.jp
     口座/加入者名 百花園サポート士隊 00150−8−317047

●第601回無声映画鑑賞会 [なんてたってバスター・キートン]
 『キートンの大学生』(1927・米) 弁士/澤登翠
 『キートンの滑稽恋愛三代記』(1923・米) 弁士/片岡一郎
 『キートンの警官騒動』(1922・米) 弁士/斉藤裕子
 日時/8月25日 18時30分〜
 会場/門仲天井ホール
 料金/一般1800円 学生1600円 前売、電話&E-mail予約1500円
 ご予約/無声映画鑑賞会事務局
       電話/03-3605-9981 (受付時間 平日の午前10時〜午後6時)
       FAX/03-3605-9982
       E-mail/katuben@attglobal.net

●第602回無声映画鑑賞会 [第四回澤登翠一門会]
 『百万両秘聞』(昭和2年・マキノ御室)
 弁士/澤登翠、片岡一郎、桜井麻美、斉藤裕子
 日時/9月29日(月) 18時30分〜
 会場/門仲天井ホール
 料金/一般1800円 学生1600円 前売、電話&E-mail予約1500円
 ご予約/無声映画鑑賞会事務局
       電話/03-3605-9981 (受付時間 平日の午前10時〜午後6時)
       FAX/03-3605-9982
       E-mail/katuben@attglobal.net

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