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二代目さん

 東京に住んでいる我々にとって上方落語はどうしても触れる機会の少ない芸能です。無論、きちんと調べていれば月に何度かは東京で上方落語を聴く機会はありますが、それは熱心なファンに場合であって絶対数はやはり少ない。とすると、私のようなヌルい落語ファンが上方落語を聴きたいと思ったときには録音に頼らざるを得ないのであります。

 手軽に聴けるのは米朝師匠、故枝雀師匠のCDでして図書館の落語コーナーには高い確率でどちらかが置いてあります。語り口もスマートで関東圏の人間にも聴き易く、素晴らしいシリーズであります。

 私が落語のテープの聞き漁っていたのは高校時代で、図書館にある落語を片っ端から借りておりました。当然、上方落語も含まれます。その時聴いた上方落語で一番好みだったのが二代目桂春団治だったのです。


 語りのテンポの良さ、口跡の明瞭さ、程よい上方のアク、どれも素敵でした。しかしながら二代目は録音も資料も決して多くありません。初代が上方落語伝説の人物で、三代目が現役でご活躍されている為でしょうか、両者の間に挟まって話題にのぼる機会が少ないのです。その二代目の奥様、河本寿栄さんによる二代目桂春団治の思い出語りが本書です。発行は平成14年にされていますが、ようやく読んだという次第。

 この本を読んだからと言ってどうだという事は無いのです。しかし、芸は好きだったけれども、人とナリについては全く知らなかった方のエピソードに触れるのは嬉しいものです。二代目春団治師匠、もっと録音が残っていたらと思う方の一人です。
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|02/28| 読書コメント(0)TB(0)
山の王者

 アテネ・フランセでの上映会でした。作品は
 『山の王者』(Eternal Love 1929年・米)
 監督/エルンスト・ルビッチ
 出演/カミラ・ホルン、ジョン・バリモア
 ピアノ演奏/柳下美恵
でした。

 この上映会は映画美学校の「映像翻訳講座」演習科生の最優秀翻訳が付されての上映でした。『山の王者』が日本語のフォロー付きで上映されるのは戦後初だそうで、大変貴重な上映だったのです。ルビッチ程有名な監督の作でもそんな物があるのかと妙な部分で感心しまして、映画が始まれば、やはりルビッチの上手さに感心して、さらには画像の美しさに感心したりなんかして、アタクシは完全に感心バカとなっていたのであります。

 今回の会場、アテネ・フランセ文化センターは普段から工夫をこらした上映会を企画してくれておりまして、我々無声映画関係者は貴重なる作品を、この会場で多く観ております。まったくもって有難い場所なのです。会員制を採っていますので中々表面には出ませんが文化センターの名に恥じない空間と言えましょう。
|02/27| 舞台コメント(0)TB(0)
今回は市川右太衛門生誕100年記念鑑賞会で御座いました。上映作品は
『怒苦呂』(昭和2年)監督/白井戦太郎 説明/片岡一郎
『市川右太衛門傑作場面集』(昭和58年編集作品)
   編集/松田春翠 吹込/松田春翠
錦絵江戸姿旗本と町奴』(昭和14年)
   監督/森一生 説明/澤登翠
でした。

 市川右太衛門の無声映画残存率は極めて低く、無声映画鑑賞会で特集を組む時は似たような番組になってしまうのが残念なところです。大会社ならいざしらず、独立プロの作品ではプリントの数も少なかったでしょうから致し方ないの事ではありますが。

 さて、私が担当した『怒苦呂』でありますが、ラストシーンで刺し殺されてしまう式部なる青年が、右太衛門演ずるところの潮霊之介の息子であろうとのご指摘を会場で受けました。私は式部を潮のかつての部下であると解釈して台本を制作したのであります。おそらくはこのお客様と同様の感想を持たれた方もおられることでしょう。なので何故、私が式部の設定を部下と解釈したか、もう少し正確に言えば、どうして息子としなかったかを書きます。当然『怒苦呂』を観ていない方には何のことやら解らん内容です。しかもこの日のお客さんが、この文章を見るとは思っておりません。でもまぁ、いい加減に台本を書いていると思われた節があって、それぢゃあ業腹なので理屈を表に出すことでフラストレーションを開放しようという行為です。

 インターネットの正しい利用法…ではないか。
|02/26| 活動コメント(2)TB(0)
 放送大学は楽しいですな。あんなに時間の流れがゆっくりとした空間は、もはやNHK教育でも出せますまい。あんな感じが文章で出せると面白いのですが、これがムツカシイ。やるだけやってみようか。

 さて、前回の講義では大衆文化がインターネットオークション等を通じて分散をしてしまうという危険性についてお話致しました。今回はそのオークション隆盛の遠因ともなっている文化の金銭化が浸透してしまった背景についてお話したいと思います。現在、古いものはお金になるという考えは多くの人が認識している事ですが、この発想はそんなに古いものではありません。僅か20年前までは骨董はあくまで専門家が扱う物でした。それが1994年に「開運!何でも鑑定団」が放送開始され人気を得ることによって、一般の視聴者が自分の家にもお宝があるかもしれないと考えるようになりました。

 この番組の功績としては書画・骨董・西洋アンティーク等、非常に敷居が高いと思われていた世界を身近にしたと言う点が上げられるかと思います。その結果、番組内で発見された文化遺産もあります。

 しかしながら問題点も少なくありません。こうした多数の聴衆の前で何でも鑑定してしまう事は、多くの人に何でもお金に換算する癖を植え付けてしまう結果を生む可能性がある訳です。現実問題として文化財は多額の金銭が動くものではありますが、反面金銭に換算し得ない価値が重要でもあります。その点に留意しないでいると金銭化出来ない美術品は価値が無いものになってしまう可能性があります。しかしながらある時点で価値が無いと判断されていたものが、何らかのきっかけで大きく注目を浴びることはままあることです。こうした価値の変動を待たずして無価値の烙印を押してしまっては芸術文化の発展をも否定するかもしれない訳です。
 
 価値の変動という点から考えれば、文化の価値と言うのは流動的であると理解できるかと思います。実際、品物そのものの価値よりも誰が持っていた、だれが誰に渡したといった品物に付随するエピソードに価値が付くケースも多くあります。こうしたエピソードは言い換えるならば、文化に託された想いと呼ぶことが出来ると思います。例えば左甚五郎の諸作品は数々のエピソードを伴う事で、その価値を高めています。またゴッホの絵画のように生前全く売れなかった、つまり金銭化されなかった絵が死後、本人の一生分の収入よりも多額で取引されるケースも多くあります。こうした事例からも安易に文化を金銭化すること、価値を固定すること危うさが見て取れるのではないでしょうか。

 そして、そうした文化=お金の構図が文化の分散を促進させているのは事実として受け止める必要があるでしょう。

 本日は大衆芸能の集中と分散を憂える~分散篇その2~と題して、文化を金銭化する問題点についてお話しました。次回はおいしいハンバーグの作り方についてお話したいと思います。

 それでは。
|02/25| もやもやコメント(0)TB(0)
 師匠公演の映写担当で大宮までお供。上演作品は
『最後の人』(1924年・独)
  監督/F・W・ムルナウ  主演/エミール・ヤニングス
  映画説明/澤登翠
でした。映画史では無字幕映画の傑作として名高い本作、一般の方はまず知らん作品でしょう。そもそも無字幕映画ってなんじゃいなだろうと思います。解説はしませんけど。

 この映画はラストが二つあります。一つはエミール・ヤニングス演ずる男が悲しい人生に打ちひしがれて終わるバッドエンド、もう一つは、このバッドエンドに付け足される形で始まる、打ちひしがれた主人公が突如大変な幸運に恵まれて幸せになるハッピーエンドです。ハッピーエンドは本来予定されていなかったそうですが、アメリカ輸出を考え付け足されたものだそうです。アタシは初めてこの映画を観た時にハッピーエンドに驚きました。予定外のエンディングが付け足された事にではありません。その事実は本で読んで知ってましたから別に大した事ではなかったのです。吃驚したのは付け足しハッピーエンドに割いている時間です。この映画、大体75分なのですが、ハッピーエンド部分で10分程度あるのです。普通の監督や作家だったら自分の意に沿わない追加は最小限に留めるはずです。なるべく異物を排除したい、これが人情ではないでしょうか。この発言を弁士が言うのもナンですが…。まあとにかく無理矢理付け足さねばならなくなったシーンはサラッと済ますと予想して観た私の前で延々続くハッピーエンド。この部分にも人間の裏面を描きこんでくるムルナウの凄さを観て取る事は当然可能です。にしても長い。

 蛇に足を書き足して台無しにしてしまったのが、いわゆる蛇足ですが、全体の10分の1を超えるとは、どんだけ長い足なんざましょ、と驚いたのでした。4年程前のお話でした。

 大宮図書館では来月は『イェスタベルリングの伝説』、再来月は『折鶴お千』の上映会をやるみたいです。『イェスタベルリングの伝説』には弁士は付きません。『折鶴お千』は活弁トーキー版、つまり録音です。ん~、アタクシに演らせてもらえないでしょうかァ。

 
|02/24| 活弁コメント(0)TB(0)
ゴー宣・暫

 『ゴーマニズム宣言』は凄い作品です。漫画を言論のフィールドに持ち込んだ(持ち上げたではないよ、念為)ことは大いに評価される事でしょう。といっても私自身は「ゴー宣」は1・2巻と靖国論、それに連載をちょろちょろと見ただけで全体の10分の1にも満たない量しか読んでおりません。けれどもたまに読む「ゴー宣」は何かしらの刺激を与えてくれましたので、やはり凄いなとは思っていたのです。
 
 私の小林よしのり初体験は同世代の多くがそうであるように『おぼっちゃまくん』でした。当時のアタシはこの漫画を好きになれませんでした。内気というか気の小さい自分にともだちんこやいいなけつは重たかったのでありましょう。しかし今になって考えると『おぼっちゃまくん』にしても出世作『東大一直線』にしても当時の日本人が何に浮き足立っていたかが良く描かれていて、小林よしのりという人は時代を読み取る力のある人だなと、今更ながら感心してしまうのです。

 そんな方ですから『ゴーマニズム宣言』を始めたのも当然の流れだったのかもしれません(結果論ではありますが)。しかしながらかつて私が「ゴー宣」で最も感心したのはそうした時代感覚ではなく「ゴーマンかましてよかですか?」という一言でした。これは素晴らしい発明だと高校生だった私は唸りましたね。どんな暴論であろうとあらかじめゴーマンだとことわっている以上、それに愚図愚図文句を言う奴がみっともなくなってしまうという構図、これが凄かった。正論も暴論も等しく娯楽化できる様式だったんですね。実際、編集に踊らされたのか宅八郎氏がこの連載に噛み付いて、結果醜態をさらしていましたっけ当時。

 
|02/23| 読書コメント(0)TB(0)
アッシャー家の末裔

 某所での上映会。上映作品は
 『アッシャー家の末裔』(1928年・仏)
  監督/ジャン・エプスタン
 『裏階段』(1921年・独)
  監督/レオポルド・イェスナー

 両作品とも完全なサイレントの状況では観たことがありますが、今回は『アッシャー家の末裔』に伴奏、『裏階段』に伴奏とナレーションが付いておりました。「アッシャー家」は徳川夢声師のライブ音源がラストシーンのみ出廻っております。ラストシーンが残っているという事は全篇残っている可能性もあるのです。そしてその音源が保存されていであろう場所も見当はついているのですが、手が出せない。今後向こうが表に出してくれる事を期待しましょう。夢声のライブ音源では私の良く知る某映画会社にも『カリガリ博士』が残っております。ただこの音源、商品化するには致命的な欠陥がございますです。「カリガリ~」は劇中に精神病院が出てくるのですが夢声師、この病院を「キチガイ病院」と連呼しているのです。一寸無理よねぇ。

 この日の上映作品で『アッシャー家の末裔』にはチト思い入れがあります。私がこの映画を初めて観たのは5年程前、渋谷のアップリンクファクトリーでした。今のアップリンクではなく、ビルの上の階にあった昔のアップリンクの時代。あの日、「アッシャー家」を未見だった私は、何とか観たいと予定を調整してアップリンクに向かったのですが、時間調整の為に無理をしたアタクシは劇場に着いた段階で既に眠気が頭の片隅にとぐろを巻いている始末。上映は音楽すらないサイレントでの上映で「こりゃあ寝るな」と自分で思っていたのでした。よくやるのです、私。貴重な無声映画が上映されると聞くと無理算段して会場にいって上映中に寝てしまうというパターン。そもそも無声映画を上映している映画館は暗くて、暖かくて、静かですから人間が眠るにはもってこいの環境が展開されている訳です。フィルムセンターの無声映画の上映時なぞは、お家のないおじさん達がよく来て寝ております。その位サイレント映画は寝やすいのです。まぁいいや、で、そんな「寝るな」と予感しつつ席に着いてみると私の他にお客はたった二人きり、ほぼ貸切でした。この少ない人数が良い方向に作用したのでしょう、上映が始まるとまるで映画と自分が二人っきりになっているような不思議な錯覚に囚われたのです。暗闇にぽっかり浮かぶ映像とその映像に吸い込まれてゆく自分、えもいわれぬ快感であったと記憶しています。

 あの快感は音声があったら中々体験できない感覚でしょう。比較的近いのがマジックアイでただの花畑の写真の中から文字が浮き出してきた時の快感ですな。余計解り辛いですか、そうですか。とにかく、そういう体験をした『アッシャー家の末裔』は私にとってインパクトの強い作品なのであります。そして、以上のような体験によって無声映画大好きな方の「無声映画に音楽はいらぬ、まして弁士などもってのほかである」式の考え方もよぅく解るのです。では、なぜお前は弁士なのか?それはまた、いずれの機会に。

 『アッシャー家の末裔』はIVCから状態の良いDVDが出ております。オススメ致します。
|02/18| 活動コメント(0)TB(0)
 大衆芸能に限った話ではなく、文化全体の問題なのですが。

 過日、ネットーオークションに貴重な無声映画が出品された事を書きました。こうした物が誰の目にも触れるところで売買される事は10年程前なら考えられなかった事態です。インターネットの普及によって誰もが売り手になれるようになった顕著な例といえるでしょう。こうした変化にはメリット、デメリットが伴います。当たり前ですが。

 メリットは必要な物に用意にアクセス出来るようになったことですね。私なぞは大いにその恩恵に与っております。ネットオークションが無ければ500枚から所蔵している弁士諸先生のレコードは半分にも満たないでしょう。何枚か有る貴重な音源も手に入れる事が出来ないのですから今の時代には感謝せざるを得ません。同様の感想はコレクター、研究者の多くが感じていると思います。

 しかしですな、これは同時に大いなる問題をも抱えているのです。お金を払えば大抵の物が手に入るようになったということは、金銭的に余裕のあるにわかファンと貧乏な研究者が居た場合、重要な資料がにわかファンに流れてしまうのです。そしてそのファンが品物の価値を認識出来ずに粗末に扱えば…。言うまでもないですわね。
|02/17| もやもやコメント(0)TB(0)
散り行く花 学士会館

 やたらにポエティックな表題で…。

 神田の学士会館で定期的に行われている師匠の会でした。上映作品は『キートンの探偵学入門』(1924年・米)と『散り行く花』(1919年・米)の二本立て。『キートンの探偵学入門』は日本で公開された当初『忍術キートン』と題されてました。んが、誰が付けたかは知らねどもあんまりっちゃぁあんまりなタイトルなのでリバイバル公開の時に『キートンの探偵学入門』になったというシロモノです。どっちみち優れたタイトルではないのですが忍術よりはマシかね。原題は『Sherlock Jr .』これもまぁ、ってタイトルですが。

 映画のタイトルというのは原題をいじる事は勿論できません。しかしそれぞれの国での公開用のタイトルは配給業者が自由に決めていいのだそうです。ですから『忍術キートン』のような珍妙なタイトルが生まれるという訳。最近では『Napoleon Dynamite』のリリース時に電車男ブームの余波が残っていたことから『バス男』というタイトルになった例も御座います。これなどは大変に評判が悪い。ただ、このセンスの無さ、作品に対する愛情を感じられない邦題がいくらか宣伝になってましたから業者の思うツボだったのかも知れませぬ。こうしたタイトルの中で傑作だと個人的に思っているのが『The Turning Point』(1977年・米)で邦題を『愛と喝采の日々』といいます。素晴らしいセンスぢゃあ御座いませんか。

 この日のメイン作品は『散り行く花』で、原題を『Broken Blossoms. 』といいます。直訳ではありますが良いタイトルですよ、これは。この映画史に残る作品はアタクシが初めて師匠澤登翠を観た作品でもあるのです。言うなれば人生を変えた映画ですな。当時浪人中でありながら演劇の稽古に明け暮れるという親から見れば最悪の長男であった私は、弁士付無声映画上映会のチラシを観て驚き、すぐさま前売り券を購入したのでした。何しろ活弁の知識はあったものの現役の弁士がいるとは一介の高校生が知る訳もなく、その衝撃たるや大変なものだったことをとても良く憶えております。そして公演当日の衝撃、無声映画とは活弁とはこんなに面白い物でありしかと若き片岡青年は興奮気味に帰宅して、その日の感動を親に話して聞かせるという感動振り。そんな話を浪人中の息子から聞かされる親の心境は今になって解りますが、当時はそれどころぢゃなかったんですよ、まったくのトコロ。

 あの日、『散り行く花』を観ていなければ、師匠の活弁に触れていなければ今日の私は居ないのですから縁とは不思議なものでアリマス。その思い出の映画をこの日は私が映写したのです。まさにあの日のフィルムを自分の手で映写機に掛けて、光を出したのです。上映中、感慨深くなって頭の芯が痺れてしまいました。感動していたのです。

 ただまあ、そのあと、あるミスをしてしまい、師匠に怒られて感動は五分で終わるという落ちまで付いてしまったのですが。

 
|02/16| 活弁コメント(0)TB(0)
江戸バレ句
 
平成二年・集英社・渡辺信一郎/著

 バレ句、いわゆる艶な川柳ですね。昔から興味のある分野でありました。ただ古川柳を現代人の我々が解説なしで楽しむのは中々に骨が折れる作業ですので、いかに親切な注釈が付いているかが新書や文庫で出版される際の重要な要素になってくるのです。で、手が出なかった。さほど多くの川柳に触れたことがある訳ではありませんが、本書は末摘花等からの紹介も多く、それなりに楽しめました。

 江戸のバレ句を読んでいて驚くのが意外や露骨な単語や表現が多いのです。アタクシは本書を電車の中で読んでいたのですが、もし朗読をしてしまったら気狂いと思われるに相違ありません。しかし声に出さなければ表紙を丸見えにして読んでいても、満員電車で隣の人から見られても私は真面目な文学青年としか映らない事でありましょう。声に出して読みたくない日本語、ちゅうやつですなこれは。にしても、チン○とかマン○とかは江戸時代から在る言葉なんですね。ということは、これらの言葉は対象の本質を簡素に突いてるのでしょう。奥が深いなぁ。

 本書で紹介されたバレ句で好きなのが『誹風柳多留』115篇29丁に収録されている

   おめでたく 死にますといふ 姫初め

という句です。もっと穿った、読みの深い句も沢山あるのですが、この単純素朴な洒落が好みなのであります。

 読み込んでいけば、どんどん奥が深くなってゆき、馴染むほどに楽しさが増す。しかし、とっつきは悪い為に初心者には適切な解説が必要である。無声映画とおんなじです。ま、無理に自分のフィールドに話を引き込む必要もないのですが。
|02/15| 読書コメント(0)TB(0)
 昨日は仕事を二件も断られてしまいました。理由は「若すぎる」んだそうです。この理由、これまでも度々ありました。活弁や紙芝居のイメージは中年~老年という事ですね。んな事言われても実際に20代なんだからしゃあないんですわ。

 イメージはやっかいです。弁士も紙芝居も全盛期は若い人が多かったはずなのに、継いでいく人が少なかった為に演者が高齢化しただけなんです。でもそれを求められると応えようがない。学生の頃はオッサンくさいといつも揶揄されてきたアタシがプロになると若いといって仕事を断られる。難しいモンですなぁ。

 勿論、若いの他に理由があるのかもしれませんけどね。
|02/14| 活弁コメント(0)TB(0)
 某所で『春は還る』(大正13年・朝日キネマ)を観る幸運に恵まれました。脚本・監督/栗原喜三郎(栗原トーマス)、助監督/内田吐夢、原作/簡易保険局、撮影/長谷川清、美術/尾崎章太郎、出演/渋井如水、竜田静江、小島勉です。

 簡易保険局の依頼で製作された本作は不幸な主人公が不幸のどん底に陥ったとき、万が一に備えて加入していた簡易保険によって幸福を手に入れるという思いっきりCMの為の映画です。この手の作品は当時相当数作られていたようですが、劇場公開はされない性格の作品ですから全体像が掴みづらいという厄介なジャンルです。

 『春は還る』の特色としては関東大震災の映像が挿入されているという点に尽きるでしょう。ぽっきり折れた浅草十二階、火の手の上がる町並みと、それを冷静に見つめているカメラの視線が妙に不気味です。さらに映画用にエキストラを使って地震から逃げ惑う人々を撮っているのですが、こちらの緊張感の無さも実写と妙なコントラストを描いておりました。この大地震で何もかも失った主人公が簡易保険によって当座のお金を手に入れるという、製作企画として関東大震災ありきの凄い映画なのです。

 同じく朝日キネマ作品で現存しているものに『虚栄は地獄』(マツダ映画社保存)があります。こちらは監督が内田吐夢、助監督ではなく監督なのですが、『春は還る』と『虚栄は地獄』のタッチというか雰囲気というか気配というか、とにかくそういう物が非常に良く似ているのです。終映後に参加者で少し話をしたのですが『春は還る』の製作時、既に栗原トーマスの健康は大変悪い状態であったろう時期で、実質的には内田吐夢作品と考えた方が妥当なのではないか、という見解も出たのでした。

 関東大震災、この当時における未曾有の大惨事だった訳ですが、保険会社は逆にビジネスチャンスにしていたようです。そりゃあ考えて見れば「万一に備えて」が基本の保険会社にとって、その万一が起きた直後ほど営業の説得力が強い時期も無いんですから、これ幸いとばかり宣伝映画を作ったのでしょう。もし今後、関東直下型の大地震が来たら保険会社はどんなCMと作るんでしょうか。地震はとても怖いので来ないに越した事はないのですが、未来を予想する楽しみというのは、こんな惨事を介しても発生するものなのですね。想像力、いやさ想像したい欲求は底なしです。怖い怖い。
|02/14| 活動コメント(0)TB(2)
鞍馬天狗のおじさんは

 名著の誉れ高い本書を今まで読んでいなかった事は、全く持って我が不徳の致すところで御座います。でもようやく読みました。だから許しておくれ。

 本書は竹中労氏が日本映画縦断シリーズの番外として発表したもので、大スター嵐寛寿郎に聞書に並木鏡太郎、稲垣浩をはじめとする関係者のインタビューを加えた真に貴重な映画史の記録なのでありますが、数々の証言も頻出する嵐寛の口癖「ほてからに」と、大好きな「おめこ」発言によって何だかどうでもいいような幸福な気持ちにさせてくれる素敵な本なのです。

 
|02/12| 読書コメント(0)TB(0)
 さてさて、今回はストリップの話題なぞ。表題の通り記念興行でして出演者も若林美保、御幸奈々、HIKARUといった気合の入った面々でした。個人的には若林美保さんは長いこと舞台を拝見させて頂いていて、この方の舞台にかける意欲、情熱は並々ならぬ物があります。彼女の舞台を見ると私なんかは感心バカと化してしまうのであります。この方単独で小論書いてみたい位のもんなのです。機会があったら御覧なさい。古い映画しか観ないのは不健康ですぞ。
|02/10| 舞台コメント(0)TB(1)
 何やら理解できませんが、突然アクセスされてますね。さぞやがっかりされている方が多いことでしょう。でもま、そんな事もありますよ。とりあえず公演案内です。


第583回無声映画鑑賞会
[市川右太衛門 生誕100年記念鑑賞会]
 2月26日(月曜)午後6時30分開演
 会場/ 門仲天井ホール  電話 03-3641-8275
(地下鉄東西線「門前仲町駅」出口3下車徒歩3分、
  都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」出口6下車徒歩1分)  
  料金/ 一般1800円 学生1600円 前売、電話&E-mail予約1500円
弁士/澤登 翠(『錦絵江戸姿 旗本と町奴』)
   片岡一郎(『怒苦呂』)

です。ご予約はマツダ映画社HPhttp://www.matsudafilm.com/の活動写真・今月のお知らせで受付ております。あるいは直接言って下され。

|02/09| 活弁コメント(1)TB(0)
山田無声

 誰も待たない連載企画、弁士列伝の二人目は山田無声です。この人知ってる?知らねぇだろうな。マァいいや。

 山田無声(やまだむせい)、本名を山田東吾という。1905(明治38)年1月1日東京都京橋区の生まれである。1922(大正11)年早稲田大学文学部に入学するも二年で中退。松竹大船撮影所脚本部を経て映画説明者となる。弁士になった経緯は不明だが昭和7~10頃は日活封切館帝都座に在籍していたようで、無声映画晩期まで弁士として活躍していた事が伺える。現代劇を専門にしていた。ちなみに当時の帝都座主任弁士は谷天郎、同僚には森田天倫、近江錦堂、渡辺狂花がいた。
 1937(昭和12)年に日活多摩川へ俳優として入社、北竜二と名乗る。所属していた帝都座が日活封切館であった事を考えるとコネ入社だったのかも知れない。俳優デビューは内田吐夢監督の『限りなき前進』であった。出演には『軍国の花嫁』等の主演作もあるが基本的には脇役で活躍する。特に小津作品『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』では独特の存在感を見せた。1972(昭和47)年4月16日に亡くなる。トーキー化により生活で苦労した弁士が少なくない中で、名脇役として地位を築き生涯を芸能界で過ごせた山田無声=北竜二は幸運であったといえよう。
 レコード吹き込みは山田無声として単独での吹き込みは無いが『水兵の母』を谷天郎、本多善郎『噫橘大隊長』を大谷三郎、他『大楠公』を同じく大谷三郎『酒は涙か溜息か』を叙情物語として歌手の三木和夫『濱の朝焼』を歌謡物語として杉村芳江と吹き込んでいる。『水兵の母』が昭和8年5月『濱の朝焼』が同6月の発売である。発売は全てリーガルレコード(日本コロムビアのレーベル)である。筆者は『濱の朝焼』以外の4タイトルを所蔵している。
 
 昭和13年12月にテイチクから北竜二なる説明者が『祇園の花嫁』という映画説明のレコードを発売している。現物に当たれていないので、この北竜二が山田無声であるか判断出来ないが、それ以前に北竜二という説明者のレコードが見当たらないことや、発売時期が日活入社の翌年という事から考えて俳優転向後の吹き込みである可能性は高い。
 という賞にいつも大変お世話になっている柳下美恵さんが輝きました。大変にめでたい事であります。本日は授賞式に出席させて頂きました。この賞がどれ位凄いのかは賞に縁が無く、この先も無さそうなアタイにはよく解ってないのですが、こうした事の一つづつが無声映画の未来に繋がってゆけば良いと思っています。これで柳下さんの課題はもっと売れた時に仕事をこなせる体力っちゅうことになりますね。
 そんな柳下美恵さんの情報はこちらでだうぞhttp://www.ltokyo.com/yanasita/miespick.html

ちなみに写真はパーティの席での記念写真。凄い顔ぶれなのですよ。解るぅ~?
日本映画ペンクラブ授賞式

|02/08| 活動コメント(0)TB(0)
涼宮ハルヒの憂鬱
 京極堂シリーズを読み続けて脳みそが大分理屈っぽくなってしまった感があるので方向性を変えてみべぇと何年かぶりに角川スニーカー文庫を買いました。どうせ読むなら流行モノ、選んだのは『涼宮ハルヒの憂鬱』でした。ところがね、この本、予想よりも理屈っぽかった。設定は荒唐無稽なんですが、その荒唐無稽を成立させる為に理屈を重ねていて、その辺が興味深かった作品です。それなりに楽しく拝読。しかし時代は変わりました。昔、自分が盛んに読んでいた頃は理屈抜きの小説が多かった気がします。いまやファンタジーを読むのにも理屈が必要なのかと思うとチト寂しいのですが他の作品を読んでいる訳でもないので断定は出来ませんけど。

 
|02/07| 読書コメント(0)TB(0)
妖怪

 昨年末から一月中はあんまりにも仕事がない時間があったので読書に時間をかけることが出来たのでした。そこで『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』と立て続けに読んだのです。少年時代、大の妖怪好きで現在は毎日のように古本屋をうろうろしている私にとって京極堂シリーズは禁断の作品であろうことは予想済みでありましたので今日まで手を出さなかったのですが、俗に言う魔が差したという奴で、ついに読んでしまったのでありました。
 
 しかしながら自分が好きなものの歴史を見ると恐竜、妖怪、無声映画とこの世ならざりしモノばかりで、そりゃあ友達が少ないに決まっているのです。同級生にしてみれば付き合い難い奴だったことでしょう。テレビもあんまり見なかったしねぇ。

 ちなみにタイトルの「何か妖怪?」は使い古された洒落ですが、言うウ人によって強烈なインパクトを放つ言葉なのです。以前水木しげる特集を何処かのテレビでやっていてゲストが三輪明宏、そこで三輪氏がおもむろに口走ったのが「何か妖怪?」だったのです。本物の妖怪が言うとそれはそれは魅力的な響きを持っておりましたっけ。
|02/06| 読書コメント(0)TB(0)
森谷延雄展

 佐倉市立美術館で森谷延雄展がやっております。この方、日本のインテリアデザイナーの草分けで海外にも留学しドイツ表現主義の影響を受けたという中々に興味深い人生を歩んだ人なのです。今回は表現主義をより解って頂こうということで代表的な映画『カリガリ博士』を上映したのでした。併映は『チャップリンの消防夫』、ピアノ演奏・新垣隆、弁士・片岡一郎でした。終映後は展示にお客さんが流れてくれたそうですのでお役目は果たせたようです。良かった良かった。

 今回展示の森谷延雄氏は正に知られざる才能だったのではないでようか。それともデザインの世界では有名なのかな?そちらには疎いので解りませんが出身地での展示は大いに意義のあろうかと思います。33三歳の若さでこの世を去った彼の人生は大正の和洋が混ざりあってゆく様を具体的に我々に示してくれます。中でも東京府の図案募集で一等を獲得した22歳の時の日記に書かれた「私の一生は家具界の革命であるのです。/森谷式を作ることであるのです。」という言葉には本人のみならず日本の若さが漲っているようです。この国が老いたとはよく耳にする言葉です。本当にそうかは分りませんが大正時代、日本は確かに若かったのでしょう。若干22歳の青年が革命を志せる、凄いことです。
|02/04| 活弁コメント(0)TB(0)
キングオールスター歌謡パレード

 今年はキングレコードさんが創業75周年だそうで記念イベントがあれやこれやとありまして、ワタクシも参加したと、そおいう次第。何ゆえに参加したかってぇますと昭和60年に松田春翠の活弁入りで発売された『北国浪漫』が新人歌手あい&もも香のレコーディングで復活しまして折角なので弁士も生でやろうと、まぁそういう事情です。もちろんCDでは松田春翠の声で活弁は入っているにも関わらずの仕事で、考えようによっては大師匠の代演で御座いますからプレッシャーも感じながらの仕事でした。

 曲が活弁→歌→活弁→歌→活弁というどっちがメインやら解らん構成だったのがまた大変でしたが、中野サンプラザ一杯のお客サマは正体不明の弁士の語りもきちんと聴いて下さったのです。ありがたや。にしてもアタクシ、基本的に独り舞台が多いので自分の台詞を語ってからお二人が歌っている間、舞台の端にポツネンと立って居るのがとてもとても緊張したのでした。それから夏木ゆたかさんは大きな人でした。

 25日には『北国浪漫』のカラオケ大会があります。活弁部門もあるそうなので、どんな活弁が聞けるやら楽しみでゴザイマス。

 あい&もも香さんの情報はhttp://www.a8k.jp/ai_momoka/index.html
|02/03| 活弁コメント(0)TB(0)
 ヤフーオークションに『執念の毒蛇』の16mmフィルムが出ております。現存する沖縄最古の映画で、無声です。存在は知ってましたがまさかオークションに出るとは。「大切にして下さる方」に売りたいとのことですが80万は出ないっスね。貴重な貴重な映画です。誰か共同で買います?
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n51660980
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