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昭和六年 弁士番付

 今回の画像は昭和6年矢部古泉堂発行の番付です。須田貞明の位付けは統師となっていまして、同格には静田錦波、松井翠声、加藤龍美、中村声波等が並んでいます。キャリアを考えると大変な高位であります。

 二回に渡って須田貞明を取り上げまして、今回は一月半彼に関わって感じた事を吐き出します。何しろこの先輩はシニカルな方でして、それを追っている私も影響を被ってしまいましたから最近のモロモロの発言が卑屈気味だった事は否めません。特に同業者に対してなぞは大いに不快感を与えかねない発言をこの場で繰り返してきました。それもこれも皆、須田貞明の人生を追っていた所為なのです。ごめんね。もうああいう事は書きません。思うだけに留めます、たぶん。

 
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週刊ウシゴメ 第二十号 昭和二年七月九日発行

 本日の画像は牛込館のプログラムを載せてみました。筆者蔵です。須田貞明の顔を見たいという方は共同通信社から発行されている『黒澤明 夢のあしあと』を御覧下さい。鮮明な須田の写真が掲載されています。さて、須田貞明のその2であります。本日は須田の芸と人について書いてみたいと思います。といって私の知る限り須田貞明は映画説明をレコードに吹き込んではおりませんので実際の声に当たって考察する事は不可能なのです。あくまで幾つかの記述による想像でしかありません。ご了承を。

 余談ではありますが、当時のレコード吹き込みに関東洋画説明の重鎮は吹込みが極めて少ないのが現実です。全国的に有名だった夢声にしても、現存が確認されている映画説明のSP盤は「ジークフリート」だけという淋しさ。これにはセールスの問題とレコード会社が関西圏に集中していたことが理由として挙げられると思います。洋画説明で有名な生駒雷遊も吹き込みは時代劇中心です。仕方のない事とはいえ洋画専門の説明者をもう少し残してくれたらと思わずにはいられません。
須田貞明死亡記事

 資料収集に大いに手間取りました。何とか3月中に書く事が出来るので一安心。この須田貞明という名前で何人かでもここに辿り着いてくれれば望外の幸せです。何しろこのブログの唯一の存在価値が弁士列伝なのですから。

 その1では須田貞明の人生を追っていきたいと思います。この須田貞明を現在誰かに説明しようとすれば方法は一つしかありません。それは黒澤明のお兄さん、という紹介の仕方です。ですがそれは黒澤明が須田貞明の弟という事でもあるのです。視点の問題ではありますが、その視点にこだわって書ければと思っているのですが、はたして上手く書けるかどうか。

LPレコードの逆襲

『LPレコードの逆襲 CDは音楽の楽しみを奪った』かまち潤・著 平成3年 毎日新聞社 を読みました。

 古い本です。発行が古いのではなくて、書いてあることが古いのです。本書はCDがLPに取って代わりつつある時代に書かれたもので、著者はタイトルからも察せられる通りLPレコードが大好きな方です。その為に文中でも建前としては「CD、LP共に長所と短所があり、特性を見きわめて利用するのが望ましい}としていながら全体の論調はあくまでLP寄りでして、アナログ愛好家がいかにCDに対して強い抵抗感を感じていたかを知るには絶好の書と言えます。

 例えばLPに対しては操作や設置の面倒さを認めながらも、手をかける事が愛情を育てる方法であると論じていながら、CDに対しては手軽さを認めつつ、小さくて探しづらい、これではライトユーザーは音楽から離れてしまうと危惧しています。

 LPでは大事な事がCDでは不満になってしまう。見事な論理の破綻でありまして、こうした破綻が随所に見られるのが本書の凄いところです。だがしかし、そこんとこを気安く否定しちゃあイケません。だって誰でも好きな物を守る時には論理がおかしくなってしまうぢゃないですか。愛すべきものを弁護するためには理屈ではない、情熱だ!とこの本は叫んでいるように思えるのです。

 とはいっても結局LPレコードの逆襲はなくCDに音楽業界は制圧されてしまったのですけれど。
|03/26| 読書コメント(0)TB(0)
 ストレートすぎる題名のイベントがさいたま市立美園公民館で行われました。弁士は澤登翠、演目は『チャップリンのスケート』『雄呂血』というこちらも直球ど真ん中。映写がアタクシ片岡一郎とこれもいつもの通り。んな訳で会場は地元の方中心で御座いました。

 日本映画史において大変重要な作品『雄呂血』はマツダ映画社最大の財産といっても過言ではないと思いますが、本作はその重要性故か批評で云々されすぎるきらいがあります。御存じない方は仕方ありませんが、最後の大立ち回りの部分ですね。あすこは善良な青年武士の久利富平三郎が誤解の末無頼漢と罵られ、悪人の汚名を着せられ、ついに義憤ほとばしり刃を振るうシーンです。なぜこの映画が伝説になったかといえば、この大乱闘の凄さ、長さもあります、阪妻の無声期における代表作であることも挙げられますが、それ以上に賞賛されるのが乱闘シーンの解釈でして、それまでは正義のヒーローが悪人を退治するための剣戟だったのが、追い詰められた主人公の心理にまで踏み込んだ点が斬新であったためです。

 ゆえに『雄呂血』評論家からも、たかがチャンバラと見下される事もなく伝説の時代劇たり得ていたのです。勿論そうした解釈は間違っていません。いませんどころか紛れもない事実なのですが、あまり精神性ばかりに眼を向けるとチャンバラ映画の本質を見失う可能性が出てきます。その点を見事に突いたのが嵐寛でした。以前ここで感想を書きました『鞍馬天狗のおじさんは』の中に葉村屋が『雄呂血』を観たときの感想が載っているのです。評価は非常に単純で殺陣の中に同じテが無いのが素晴らしい、というものでした。これはとても大事な発言で、チャンバラはあくまで肉体運動だという事を我々に思い出させてくれます。昔もそうですが現代はますます精神性を尊ぶ風潮が強くなってきています。芸人にも真心を込めた芸を求めてくる人もいます。ですがプロになったら心は伴って当然なのですね。グズグズ考えている暇があったら技術を磨けと言いたくなるような芸人もいます。あぁ、また理屈をこねだしました、よくありません。しかしながら『雄呂血』はそんな芸能の根源的な肉体への回帰を我々に意識させてくれる作品であるのです。『雄呂血』はもう観たよって方も阪妻の肉体に注目してラストの大乱闘を観てください。新しい発見がありますよ。はい。
|03/25| 活弁コメント(0)TB(0)
 今回は「伝説のスターの伝説の映画 一挙上映!」と言うテーマでルドルフ・ヴァレンティノの特集。

 上映内容は

『シーク』(1921年・米)監督/ジョージ・メルフォード
   説明/斎藤裕子
『熱砂の舞』(1926年・米)監督/ジョージ・フィッツモーリス    説明/澤登翠
でした。

 アタシの出演はないのに知人が来てくれて「ありがたいなァ」と思ったり「姐さん、そりゃないよ」と思ったりしたのでした。知人がくる事に今回は若干の懸念がありました。というのは『シーク』と『熱砂の舞』は完成度の違いこそあれ、おんなじ様な話なのです。折角来てくれたのに同じ映画を二回観たような印象だったらどうしたものかと心配していたのですが、この日の師匠は絶好調で、今まで何度と無く接してきた『熱砂の舞』の中でも最も良い『熱砂の舞』でした。私見ですが、勿論。

 出来のいい時のウチの師匠はホントに恐ろしい存在で、大したことのない映画であってもワクワクさせてしまいます。以前、無声映画鑑賞会で『鞍馬天狗』を師匠が演った時にそんな感じでした。寛プロ第一回作品の『鞍馬天狗』は物語としては極めて詰まらない作品です。観た後の感想が「へ~鞍馬天狗つよ~い」ってなもんです。自分も演った事がありますが別段乗らない作品でした。実際、師匠が演っても面白くなかった時もあります。ところが調子の良い時の澤登翠の手に掛かるとバカ面白い作品になってしまうのです。

 なにが言いたいかというと、この日来た人はラッキーでしたって事ですわ。

 『シーク』を担当した斎藤裕子はアタシのとっても年上の妹弟子。妹弟子なのですが我が一門の例に漏れず兄弟子に対して無礼千万である。そこでコヤツの秘密を此処で暴露することにした。
|03/23| 活弁コメント(0)TB(0)
黒澤明

『わが青春の黒沢明』植草圭之助
『蝦蟇の油 自伝のようなもの』黒澤明

 上記2冊を中心にして資料を読んだり国会図書館に行って古新聞のコピーを撮ったりしてきています。ある映画説明者についてここで書くためです。そもそもブログなんぞという明らかに自分に向いていない世界に手を出したのは、往年の弁士の記録を残したいが為でして、基本的に全く無益な私の文章もこと弁士の記録に関しては幾らか意味があるだろうと思っているのです。傲慢ではなく弁士の知識に関しては片岡一郎、既に日本屈指の存在なのです。ただそれは私が深い知識を持っているからではなく、誰も真剣に弁士の記録と格闘していないというだけの話なのです。嘆かわしい事ですが仕方がないので自分の為に、また興味を持った一部の方の為になるべく多くの資料を総合した形で弁士の物語を少しづつ記していこうとしているのが本ブログの正体なのです。現状では月に一人が限界です。今後はもっと難しくなるでしょう。

 殊に今度書く予定の弁士については、もっと充実した研究がなされなければおかしい存在なのです。しかし映画史はこの先人を、半ば意図的に視線から外してきたきらいがあります。無声映画末期の栄光と破滅を体現した彼について僭越ながら書きます。多分来週中に。

 さて関係者諸君に問題です。来週書こうとしている説明者とは一体誰でしょう?
 
 簡単ですね。

 分らなかったら弁士なんぞ辞めちまえ。
|03/22| 読書コメント(0)TB(0)
 無声映画伴奏者の柳下さんのお誘いで行って参りました、桂南なん独演会。会場は渋谷のアップリンクファクトリーです。上映作品も含めて何でもアリの感が出てきましたね、ここ。良いことです、多分。

 演目は

ん廻し   瀧川鯉斗
将棋の殿様 桂南なん
   
   中入り
水屋の富  桂南なん

でした。
 
 落語会は演劇とは違い、原則として客席も明るいままです。蝋燭で高座を明るくしていた時代はいざ知らず、現代の寄席はとても明るいのです。普段は意識しない事なのですが、一寸特殊な会場でやる落語会に行くと寄席の明るさに気付きます。この日の会場は映画館、暗くするのは大得意なのですが、こうパッと会場を明るくするのは不得手なんですね。会場中の照明を点けているにも関わらず、そこここに薄暗い塊がある。何だか不気味です、落語会としては。この日はその薄暗さが素敵に作用しました。南なん師匠はとても独特の風貌をお持ちの方でして、アップリンクに造られた高座での佇まいに何とも言えない存在感が生まれたのでした。特に中入りアケの水屋の富で、夢の中のシーンなどは客席が水屋の夢に引きずり込まれる様な不思議空間が出来上がってしまったのでした。

 終演後は厚かましくも打ち上げに参加させて頂きました。様々な方とお話させていただいたのですが、中でも印象深かった方はフィルムセンター関係者。何とこの会は主催の方の御縁でフィルムセンターの方が手伝いに入っていらしたのです。まさか落語会でフィルムセンターの方と知り合いになれるとは夢にも思ってませんでした。

 此処だけの話、アタイは映画の話より落語の話をしてる時の方が楽しいのです。此処だけの話だけれど。

 それから前座の鯉斗さんはとても二枚目だった事をここに報告致します。顔が良くて、楽屋仕事と力仕事が出来て、芸の筋が良い新人、ウチの業界にも来ないかしら。オイラは顔がなァ…。
|03/21| 舞台コメント(0)TB(0)
これが演歌だ

 以前、大衆文化の分散を危惧する内容の文章を書きました。ですが分散はデメリットばかりとは限りません。対象に何らかの障害が出た時に被害を最小限に留める事が可能なのです。前回は紙芝居を例にお話をしましたので、今回も紙芝居を例に挙げます。1巻から50巻までの連続物の紙芝居があるとします。当然、肉筆一点ものです。この紙芝居の所蔵庫が火事に見舞われたとしましょう。ものの数分で貴重な文化財としての紙芝居は燃えカスになってしまします。ですが、持ち主が小遣い稼ぎに紙芝居をネットオークションでバラ売りにしていたとすれば、もしいずれかに被害があっても軽微で済みます。全体が失われてしまえば上演は不可能ですが、大部分がバラバラとはいえ残っていれば上演は可能です。文化としての紙芝居は存続することになる、という理屈です。実際問題として無声映画のフィルムは一部分のみ現存しているものが少なくありません。これはフィルムがばらして保管されてるため、あるロールに深刻なダメージが発生しても別のロールが無傷であったりしたためです。もしも全巻繋ぎで保管していたら一齣も残らずその作品は失われていた可能性は大なのです。

 そうした意味からは分散は決して悪ではありません。このことは物質としの紙芝居やフィルムだけでなく芸能の形式にも当てはめて考える事が可能です。
|03/20| もやもやコメント(0)TB(1)
マリオの自由研究

 パントマイムは芸能としては非常に好きな部類に入ります。無言による身体芸としての原始性と年月を経た洗練度が不協和音を出さずに一体となっている稀有な芸がパントマイムであろうかと思います。では私がパントマイムを好きな理由がそうした部分にあるのかといえば全くそんな事はなく、むしろ上記のパントマイム感は今書きながら思いついた種類のものであるので、好きにどのように理由を付けるかという思考の中身を吐き出したに過ぎないのでありますよ。

 んでまぁ、パントマイムの公演だったのです。マリオというパントマイムサークルがありまして、最初はただの勉強会だったのがいつの間にやらNPO認可をうけて各所で芸を披露するようになっているようで、全く持って健全な発展を遂げている団体です。ワタクシはこのマリオを初期から拝見しておりまして、技術もさることながらステージ演出が試行錯誤を繰り返しながら練れて行く過程を見ているのです。進行面では不慣れな部分も多々あるのですが、それが段々と個性になってきているあたり、継続は力だと改めて感じたりなんかしたのです。

 このマリオには知人が二人居ます。一人はガッコの時の友達で藤平賢で、もう一人はその藤平から紹介してもらった田口英明さんです。彼らのパントマイムとウチの師匠の活弁でチャップリンの『モダン・タイムス』をモチーフにしたショートステージをやったことがあるのですが、ありゃ客が来なかった。無声映画の客は映画以外のイベントには冷たいです、ホントに。都合2回の稽古で迎えた本番は悪くないで出来だったのですがね。もう少しちゃんとやって見たい企画ではあります。

 さて、藤平賢ですが、まず一発で名前を読んでもらえる事はありません。なにしろこの字でトウヘイマサルと読むのですからまず無理です。彼もこれまではチラシ等にカタカナ表記でトウヘイマサルとしてきたのを今回は漢字表記にしておりました。何やら心境の変化でもあったんでしょう。といっても大した変化じゃあ無いに決まってますけれども。彼のこの日の舞台は自分の内面にダイブしてしまう薄暗い演目で、他のメンバーが分り易いマイムを見せているのに比べて圧倒的に意味が分らんと客席から大不評、さらに田口さんはマイムの舞台なのに喋る役で出演という素敵なズレっぷりで、アタシの仲良くしてる人はどうしてこうも逸脱した人ばかりなのだろうと物思いにふけってしまう夜だったのでした。

 以下、極私的な思い出話です。

 
|03/16| 舞台コメント(0)TB(0)
 私の師匠は愉快な人でして、何かを思いつくといきなり電話をかけてくることが度々あります。多くの場合、アイディアは電話の中だけで終わるのですが稀に形になるものがあります。それが最近スタートした活動写真研究会です。これは活動写真の研究をされている方や実際に御覧になっていた方からお話を伺う事を主なる目的とした集まりでありまして、今回はその第二回でした。

 この日講師をお願いしたのは大河内傳次郎研究の第一人者・梶田章先生だったのです。梶田先生は当時の活動写真館を体験しておられる貴重な歴史の証人であることから是非お話を伺いたいと思っていた方でした。

 我々が大先達の方からお話を伺う時いつも驚かされるのが皆さんの脅威の記憶力です。何が何年の何月何日にあったかを非常によく憶えている。私なぞは昨日のこともアヤフヤだというのに、この差は一体どこに起因するものか、全く持って唸らされます。この日の梶田先生はといえば、これまた鮮明な記憶から溢れるようにこぼれてくるエピソードの数々にあっという間に2時間が過ぎてしまったのです。特に白眉は神田日活館や牛込館の思い出で、いかなる文献においても接し得ない当時の活動写真館の光景を知ることが出来たのは望外の喜びと言って差し支えありません。

 海外の事情は知りませんが、日本の映画史では劇場論的な研究は、ほぼされていません。映画史はもっぱら作品とそれに関わった人々、あるいは撮影所という送り手にのみ視線が注がれているのが現状と言えます。しかしながら全ての表現というのは主体のみでは成立しません。客体、つまり観客がいてこそ表現は表現たりえるのです。この点を踏まえれば、客体を受け入れるための装置である劇場がいかに重要な空間であるかを認識するために、多くの言葉を弄する必要は無かろうと思います。

 弁士を考察するにしても、劇場を考えることは劇場の一部である説明者を考える事にも繋がるのです。言葉と言うのはとても強い表現ですから「弁士が変わると映画が変わってしまう。そんなことはあってはならない」という考えが出てくるのは当然です。ですが硬くて高さの合わない椅子で見た映画と柔らかでゆったりかけられる椅子で見た映画では全く評価が変わってしまうということも考えなければならないのです。下手な弁士を擁護したいのではありません。弁士も椅子も劇場機構として同列に考えることが大事だと言いたいのです。どんな劇場で、どんな椅子にどんな観客が座り、どんな説明者が語り、便所との距離はどのくらいで、入場料は幾らで、遮光はどのくらい完全であったか等々、それらの様々な条件が一つになってようやく表現として完成するのです。そしてこれらは無説明かつ試写室で観ていた映画評論家には記述し得ない情報なのです。

 それらを鮮明に記憶している梶田先生のお話は、だから貴重なのです。

 活動写真研究会はこれからも継続して聞き取りをしていきます。参加したい方は片岡まで。
|03/15| 活動コメント(0)TB(0)
庭先案内 2巻

 ずっと好きなものがあります、多くの人には。ワタクシにとって、このマンガの作者須藤真澄さんという方はそうした対象です。高校時代からだから13年の間ずっとこの方の作品を愛読してきました。なぜ、かくも須藤作品に魅かれるかと申せば、代わりが居ないからとしかいい様がないのです。芸人でも作家でも代わりの無い存在感がとても重要です、私には。それは私が小さい頃からずっと変わり者と周りに言われてきた事に起因しているに違いないのです。変わり者で輪に入るのが苦手だった少年は代わりのない個性を持つ人に強く憧れる様になっていってしまったのです。発売直後に購入してその日の中に読んだのですが、今頃それについて書きます。つまり書きたかったってことですやね。

 須藤真澄作品は大別すると二つに分けられます。一つが『アクアリウム』や『電気ブラン』系統のファンタジードラマ、もう一つが『ゆず』や『おさんぽ大王』のような日常ギャグマンガです。本書『庭先案内』はファンタジーの方です。須藤作品におけるファンタジーの構成はいつも同じです。
 
 日常にふと異物が紛れ込んで主人公は動揺するのですが、気を落ち着けて異物を受け入れると、そこには忘れていた大事ものがあった。

 言葉にすればこの繰り返しなのですが、どの作品もそれぞれに独特の世界観を持っています。全てきちんと違う話になっている。これは描きたくても描けません。優れているのです、作者の目線が。失われてゆくもの、失われてゆきつつあるものに対しての、どこまでも深い視線が同じ構成の作品に多彩な変化を与えていると、勝手に思っています。

 
|03/14| 読書コメント(0)TB(0)
 バニラに紹介されたらホントにアクセス伸びてやんの、やだネェ、どうも。仕方がないので彼女についてチト書くことします。

 先年お亡くなりになった方ですが、アタシの尊敬する講釈師に神田伯龍という先生が居ます。居た、と言うべきかもしれないけれど、とにかく居ます。この先生は20程も年の離れた奥様がいらして、この方とバニラのお父っつあんが同級生だそうな。
 
 ある日、バニラをテレビで観た伯龍先生、おかみさんの同級生の子供であることを聞かされたのでしょう、珍しく若い人を褒めました。曰く「女の講釈師より、この子の方が良い」だそうです。何が悔しいといってアタシは伯龍先生に褒められるどころか聴いて頂いた事すら無いのです。ステージ上で対談した事はありますが、それは芸ではナイ。嗚呼、何と羨ましい妬ましい。

 伯龍先生の思い出は一ファンとして拝聴していた客席からの印象が殆どです。その雰囲気は紛うかたなき芸人そのものでした。顔もたたずまいも今の劇場ではない釈場の空気を持っていました。話す言葉は正真の江戸弁でした。例えば「芝居」という単語があればこれを「しばい」と発音せずに「しばや」と発音していました。しばや、の最後の「や」がポイントで「い」と「や」の中間の微妙な音なのです。とても美しい響きの言葉でした。現代人に江戸弁で芝居を読ませれば「しべえ」と読んでしまうのではないでしょうか。言葉は生き物ですから変化していくのは仕方ないとしても「しばや」が失われてしまうことに悲しみは強く覚えます。さらに言えば伯龍先生の持ち根多は二千とか四千とか仰っていました。さしもの談志師匠も「嘘だろう」と突っ込んでいましたが、現在演り手がいなくなってしまった連続物の講釈を膨大な数記憶されていたことは間違いのないことです。

 弁士との関わりで言えば國井紫香とは仲が良かったらしいのです。國井紫香は映画がトーキーになった後、講釈に転向して高座に上がっていたのですが、その時期の録音が全く残されておりません。映画関係者は弁士を馬鹿にしたがるので「映像に頼った語りをしていた説明者達の話芸は力が入っていなかった」等というのですが、これも伯龍先生にうかがったら「上手かったですよ」とあっさりと答えていただき、それが嬉しかったのを良く憶えています。國井紫香が先代馬琴を本牧亭で投げ飛ばしたエピソードなぞ真に愉快そうに語ってくれましたっけ。それから先代伯龍先生の処に生駒雷遊が講釈を習いに来たことも教えてくれました。嬉しかったついでで書けば私の親戚が大変な講釈ファンだったので、その人の事を知っているかうかがったら「あの方は本物の講談ファンでした」と言って下さいました。これも本当に嬉しかった。

 とまあ諸々でアタシは伯龍先生のファンだった訳ですが、その先生にバニラは褒められているという、私の恨み言を書いてみました。バニラファンは文中に出てくる人物の殆どが解んねぇだろ。様ァ見やがれ。と、江戸の敵を長崎で…。
|03/13| もやもやコメント(3)TB(0)
 大いなる路 あるぽらん

 阿佐ヶ谷あるぽらんでの舞台でした。本番は二部構成、一部は弁士でない方々に弁士体験をして頂こうという企画の第二段。今回は声優さん二人(窪田雄祐さん・和田カヨさん)、舞台俳優さん一人(野口聖員さん)、あるぽらんの常連さん一人(せっちゃん)という全くもって豪華なる顔ぶれ。各々が各々の語り口で無声映画を語ってくれました。
 
 さらに本公演では、先ごろ日本映画ペンクラブ奨励賞を目出度く受賞された柳下美恵さんが全ての作品の音楽を演奏して下さいました。これが有難い。生音で語る楽しさは格別だからです。
 
 このチャレンジ弁士企画での狙いは二つあります。

 一つは活弁なんざ誰でも出来るということを皆さんに知って貰いたいとうい狙い。どうもね、マイナーさも手伝って特殊な職業に思われがちなのですが、活弁は誰でも出来るのです、言葉さえ話せれば。映像に何となく合わせることは慣れでしかありません。その程度の事は自慢にもなりゃしないのです。なのに現代の弁士はすぐに「今の人にも分る語りで」とか「自分らしい語りで」とか言うのです。現代人が語れば現代の語りになるのは当たり前なのです。それは工夫ではないと強く言っておかねばなりません。この問題は弁士だけでなく話芸の世界全体で抱える問題なのです。「昔の通りやっても仕方がない」と簡単に言ってしまう風潮はある程度の伝統を持つ芸能の世界でそう軽々しく口にしていい言葉ではないのです。そんな事は、どんな短編でもいいから昔の通りにやれるようになって、その上で言うべきではないでしょうか。何にも勉強しないことの言い訳に過去の否定をする流れには、どうにも賛同しかねます。そのためにも弁士でない方に活弁、つまり映画説明をしていただく必要があるのです。「私らしい語り」なぞ彼等の「彼等らしい語り」の前に大した魅力を持ちません。事実、今回弁士にチャレンジしてくれた皆さんは見事に私の身勝手な要求に自然に応えてくれました。
 
 二つめは自分もやって見たいという人を獲得したいという狙いです。無声映画業界は現在閉ざされています。弁士の勉強をしたいと思う方がいても容易にアクセスすることが出来ません。しかしながら日本舞踊や落語の世界に目を向けると、素人演者が勉強のためにプロに払っているお金は馬鹿になりません。稽古をしてもらうだけでなく、実際に舞台や高座を見たり聴いたりするためのお金、CDやDVDが発売された時に購入するためのお金、これらを勉強のために買っている層を無声映画業界も獲得すべきだと思っているのです。活弁は映像を使いますから色々な面で素人には扱い辛いのは事実ですが、第一の狙いにあるように、やろうと思えば誰にでも出来るのです。ならばやってみたいと思わせていきたいじゃないか、と思うのです。

 んでは、お前は誰でも出来ることをやってお金を貰ってるのか、って話ですわな。そこいら辺はプロとそうでない人との境界線があるのです。プロは誰にでも出来ることを、誰にでも出来る訳ではないレベルでやらにゃイカンのですよ。

 そのためにも、この試みは続けて行きたいと思っています。自分も演ってみたいという方、声をかけておくんなさい。
|03/11| 活弁コメント(0)TB(0)
『話術』徳川夢声
 日本映像学会アニメーション研究会で喋ってきたのです。日本映像学会の中のアニメーション研究会という位置づけになるこの会で学会員でもなければアニメーションを研究している訳でもないオイラなんぞが研究発表をすること自体がおこがましいのですが、頼まれれば何とかもおだてりゃ木に登るってやつでヒョイコラ行ってまいりました、日大文理学部。まさか卒業後にこんなに日大と接点が出ようとは思わなんだ。何しろ私の卒業した芸術学部という処は凄い場所でした。

 一例挙げましょう。卒業に合わせて提出しなければならない進路報告書というものがあります。氏名と学科、そして進路なんかを書いて出すんです。この進路欄にアタシャ書きましたよ、正々堂々と活動写真弁士とね。出来上がってきた卒業生名簿を見て驚いたね、片岡一郎の進路欄は空欄になっていたのです。日芸は活動写真弁士を進路とは認めてくれなかったのです。その後、日芸からはギャラの出る仕事も貰っているので気にはしちゃいませんが。この日もこの話をしたらバカウケだったのでいいです。日芸を恨んじゃいませんよ。いませんともさ。

 とにかくワタクシは弁士についての発表をせよとの事でしたので、無い頭を右にしたり左にしたりでどうやらお喋りの内容を決めたのでした。ところがね、皆の衆、話すといっても色々あんのよ。私は弁士なので無声映画さえ上映してくれれば2時間でも楽に語れます。フリートークも2~30分は繋げます。ところがですな、一つのテーマのもとに系統だった話をしてくれ、これが大の苦手なのです。話に入るといきなり結論を喋ってしまったりなんかして時間配分が全く出来ないので、仕方なく漫談みたいにして残り時間を埋めるという困った発表になってしまうこと多々ありです。よくよく考えてみると私は順序だった理論的な思考が昔から駄目でした。思いつきと思いつきがリンクしないのです。グズグズ説明しても分り辛かろうと思いますが、拙文をいくつか読み返して頂ければよぉく理解できるでしょう。おおよそ表題のままキチンとまとまった文章が書けた例がありません。いきあたりばったりで、滅茶苦茶なのですから酷いものです。

 言い訳をしても仕方ありません。つまりこの日もそうだったという事です。私の前に中国からの留学生の方が中国のアニメーションについての研究発表、大学講師の方が広告におけるアニメーションのテーマでそれぞれ一時間ほど講演されたのですが、お二方共にとても筋道がしっかりしていて解り易い、おぉ何と素晴らしい。最後の弁士がズブズブでした。

 これがひとえに語りの難しさでありましょう。ただ言葉を発するだけに留まらず、話す事とは状況によって様々な変化を求められます。私は映画説明の修行はそこそこ出来ていますし、フリートークも素人よりは出来ます。しかし講演は出来ません。圧倒的に経験不足です。それを思うと、何だかんだ言って学校の先生は偉いと思います。自分の話している事に生徒の多くは非協力的なのです。なのに毎日々々教壇に立っている。出来る事ではありません。
|03/10| 活動コメント(0)TB(0)
 カウンターなるものを付けているのは折角だからという、極めて消極的な理由に過ぎんのです。そもそも、アタイは単純に文章を書くことを目的として書いているので何人の人が見ているだろう、などと感心をもち、あまつさえ数値を具体的に出す必要は全くないどころか、障りにしかならないのです。しかしながら突然数値が伸びると理由を考えたりするのは、悔しいのですが若干の楽しさがあります。数字を伸ばすためだけに山崎バニラの話題でもやってみるか、などと他人の迷惑を考えずに思ったりなんかもします。なぜ、数字の事など気にしたかと言えば、ふた月もやっていい加減ブログとやら申すものに飽きてきただけなのです。毎日やってる人は偉いかヒマなのでしょう。いや、ヒマってだけでは到底出来る作業ではないので偉いんでしょう、やっぱり。アタシにゃ無理で御座んす。

 そのカウンター、アタクシの処は一日平均10程度動きますが、十日に一度位、突然30ン件動くことがあります。で、次の日はまた10件で、少し下がって何かで更新すると15件前後です。グラフで見ると死ぬ直前の心電図の様で、何だか守ってやらなければならないような気になってきます。「お父さん!しっかりぃ!」ってな心境です。いや死に体なのはお父さんではなくてアタシなのですが。
|03/07| もやもやコメント(0)TB(0)
 オオクションで買ったレコードケエスが届きました。2つセットで1000円と値段もお手ごろ。拙宅には映画説明のSP盤が600枚程あるので管理用の箱は必需品なのです。ところが中々十分には揃いませんで100枚以上のレコードが段ボール箱に突っ込んである状況です。いつまで経っても片付きゃしないのです。でも、片付ける事をあきらめると乱れていく一方のなのでたまに整理を試みるのですね。どうやったって容積に対して物が多過ぎるので奇麗にはならんのですが。

 それでまぁケースが届いたのです。この買い物が大当たりで御座いました。ケースにレコードがオマケに付いて来たのです。その内容が素晴らしい。廣澤虎造はじめ浪花節が5枚、アザブラブ・伸の漫才が1枚、ミスワカナ・玉松一郎の漫才が1枚、極めつけは鳥取春陽の民謡が一枚に書生節が一枚。これだけ入っていればタダみたいなものです。私にとっては。

 この私にとって、という部分が大事でして、レコードを確認しながら私はウハァとか言いながら鼻息も荒く興奮していたのでありますが、これがクラシック音楽を専門に集めている方だったなら、この盤達はゴミの山にしか見えんことでしょう。しかし私には宝の山だった。

 何故こんな事を書くかといえば「価値観って色々ですね」みたいな解りきった事が言いたい為でなく、手持ちのレコードでダブったり必要の無いものを処分しようと検品しているからなのです。私が処分したいレコードも誰かが探しているかもしれない。私が価値を知らないだけで、専門の方からみたらウハァとか言っちまう物が混ざってるかもしれない。そう思うと処分の仕方を考えてしまうのですよ。誰か貰ってくれないかしら?映画説明、義太夫、レコードドラマ、軍国美談なんかがあるのです。送料だけ頂ければ差し上げるのですが。

 欲しいという方、アタシが弁士をやる11日のあるぽらんにいらっしゃいな。宣伝に無理があるネ。
|03/06| レコードコメント(1)TB(0)
大いなる路

 映画ファンの皆さん今日は。今日は今話題の格差が無声映画にもあるというお話をしたいと思います。

 映画ファンにも色々な方がいらっしゃいますね。最新のVFX作品ばかり観ている方、韓流映画専門のマダーム、アニメばかりのオタクその他色々…。そうした映画ファンの中でも特に他者との交流が無い層に無声映画ファンが居ます。一般の方々の認識からすれば「無声映画ってナーニ?」でしょうし、仮に無声映画を知っていたとしても「つまんなそう」の一言で片付けられる事なんて日常茶飯事、好意的な意見を持ってると思えば「チャップリン面白いよね」で会話が終わってしまう。ひどい場合は「トーキーってやつでしょ」とまで言われる場合もあります。そんな会話も笑顔でかえせる素敵な人々が無声映画ファンなんです。フィルムセンターで珍しい無声映画が上映される時には、そんな素敵な人達が大集合しますから是非覗いてみて下さいね。ちなみに、この人達の欠点は「シャレがきかない」ことです。特に弁士は色んなヨタと飛ばしますが、そのために買ったヒンシュクは数知れずです。

 まあ、一言で言えばマニアックな世界なのですが、マニアにはマニアなりのメジャーとマイナーが厳然と存在しているんです。知らない方から見れば、無声映画ファン位マニアックな人は無声映画なら何でも観たいと考えていると思われるかもしれません。私も思ってました。しかし現実は違います。結局人が集まるのは『戦艦ポチョムキン』『カリガリ博士』『生れてはみたけれど』『雄呂血』のような文献に名前の出てくる作品ばかりです。無声映画の中でもマイナーな、キングオブマイナー映画には無声映画ファンですら寄り付きません。下手な農薬を撒くくらいならマイナーな無声映画の上映会チラシを撒いた方が虫が寄らないんじゃないかという位です。これが無声映画の格差ですね。皆さん、よく覚えておいて下さい。

 それでは今回はそんなマイナー無声映画の上映会情報をサンプルで紹介しますね。会場は阿佐ヶ谷のあるぽらんという中央線系居酒屋です。上映作品は『大路』という1935年の中国映画ですね。弁士はマイナーな無声映画ばかり語りたがる変態の片岡一郎です。この会場では中国の無声映画を5回も演ってます。次はタイの無声映画を演りたいと言ってるみたいです。第一人者澤登翠先生の一番弟子の名が泣いていますね。生演奏では先ごろ日本映画ペンクラブ奨励賞を受賞された柳下美恵さんを呼んできたみたいですね。人脈はあるのかと思えば、師匠の人脈を流してもらっただけのようです。しかも今回は役者さんや声優さんに弁士をやってもらう企画を同時に行うみたいです。これだって企画力があるのではありません。部外者を出演させてその人達に集客をさせようってハラに決まってます。見下げ果てた根性ですねェ。

 でも行くだけ行ってみると野良犬に餌をやった程度には喜ぶと思いますよ。詳細はコチラhttp://homepage3.nifty.com/aruporan/page003.html

 シャレだってばよ。
|03/04| もやもやコメント(0)TB(0)
万葉集
 半年以上かけて読んでいた『古今和歌集』をようやく読了。あまりに時間がかかり過ぎて前半の歌など、もはや全く憶えちゃいませんがね。
 
 『万葉集』以来ようやく編まれた和歌(やまとうた)の歌集で率直かつ純朴な表現の『万葉集』に比べ技巧的かつ理知的なのが特徴だそうですがアタシは『万葉集』そ読んでませんので解説の受け売りです。読み終わってから高校で使っていた国語要覧を見ると『古今和歌集』は八大集の一つとなっています。すなわち古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の八つの勅撰和歌集を指すのだそうです。この八大集、受験の時はスラスラと言えましたっけ。受験当時はどれ一つ読んでませんでした。歌集だけでなく近代文学もしかりで正宗白鳥、岩野泡鳴、田山家袋といった作家も名前を覚えるだけ。読書好きとしては最高に苦痛な作業でした。もっともこの辺の作家を読まずに埴谷雄高や夢野久作、コリン・ウィルソン、H・P・ラヴクラフトなんぞを読んでいた自分にも責任があるんですけれども。

 話を戻しまして…。

 「古今」は「万葉」に比べ技巧的と紹介されています。事実、掛詞は頻出しますので知識の無い現代人には注釈が付かないと何の事やら皆目解らん歌が大半を占めます。千年以上前の言葉は、もはや外国語なので当然なのですが、歌われている内容はどうかというと非常にシンプルなのが多いことに気が付きます。

 恋って苦しいものだナァ

 ああ、花が奇麗だ
 
 仲のいい友達と別れるのはさみしいヨォ

ってなモンです。むしろ現代人の作る俳句の方がよっぽど複雑なテーマを抱えています。お茶のペットボトルにくっついている俳句なんて、どうしちゃったの?と聞きたくなるほど人生語っちゃてます。いかに現代人が強い刺激の中で暮らしているかが良く解ります。

 その反動でしょうか、都会を中心にシンプルな物・事への回帰願望が強くなっているようで、その種のビジネスも目立ちます。考えてみりゃ癒しブームは先駆だったのでしょう。ここであえて申し上げますと癒しブームから広がっているシンプル志向が私は嫌いです。大っ嫌いです。無農薬野菜の食事を出す店をネットで予約して、携帯で友達と待ち合わせして、車で移動して、土にも触らずオーガニックがうんちゃらと言ってる連中がイヤなのです。そりゃあ癒しを求める気持ちが分らなくはないが、にしても金で解決しすぎるよね。田舎に住んでごらんよ。一週間、携帯を離してごらんよ。

 個人的な意見です。なので簡単にひるがえします。例えば、アロマの香りと活動写真という企画があったとして、そこで活弁やってくれと言われたら、その時は喜んで演ります。演りますとも。そして言うでしょう「皆さん、癒されて下さいね」
|03/03| 読書コメント(0)TB(0)
歯痛

虫歯になってしまいマシタ(-.-;)

毎日歯磨きしてたのになぁ。

おなかは減ってるのに食欲がわかない(ToT)

おかしいかな?と思った時に病院にいかなくちゃダメだ…

皆さんも虫歯には気をつけてね。

 
|03/02| もやもやコメント(0)TB(0)