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「弁士列伝 須田貞明その2」に若干の加筆修正を行いました。御用の向きはチェックして下さい。
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 近所のコンビニには変わった雑誌が売っています。有名な雑誌ではありますがコンビニで見かけたのは初めてです。その名も「SMスナイパー」

 保谷という練馬区と西東京市の境目のような場所のコンビニで売れるんでしょうか「SMスナイパー」

 考えてみればコンビニエンスストアってのは便利なお店ってことですから良いのか。便利にしても置くには、やや行き過ぎな気がします「SMスナイパー」

 そもそもコンビニなんぞで手軽に買ったらちっともスナイパーな感じではありません。もっとこう買うところも狙い撃ちして欲しい本です「SMスナイパー」

う~ん「SMスナイパー」
|04/30| もやもやコメント(0)TB(0)
門天若手寄席 第6回

でごじゃりました。

 4日間続けて公演に関わったのです。ここまで書くのは一苦労でした。

 “私、弁士頑張ってますo(^-^)o”式の文章なら直ぐに書けますけれども、それぢゃあんまり詰まんないので抵抗して御託を並べるのです。誰も求めていなくても、自分の為の文章なのですから良いのです。読む方が悪い。嘘です、読んで下すってる不思議な趣味の方ありがとう。いらっしゃ~い。でも自分の為ってのはホントです。こないだピーチ・ジョンって下着メーカーの社長さんも「ウチの下着は自分(女性)の為のもの」と言ってました。自分の為に自分を飾るのは必要な事です。あちらは下着で、こちらは屁理屈だと言うだけの事なのです、ハイ。

 この日は私の大学時代の同期、一龍斎貞橘との勉強会でした。

 「秋色桜」 田辺銀冶
 「太閤記の内 矢矧橋の出会い」 一龍斎貞橘
 「吸血鬼ノスフェラトゥ」 片岡一郎

 あとオマケが一つ。

 銀冶さんは前日の打ち合わせで初顔合わせ、蒼井優に似てるなぁと思ってたら貞橘が「講談界の蒼井優だ」って言ってた。もっとも貞橘しか言ってないらしいけども。でも似てます。今後、定着してゆくでしょう「講談界の蒼井優」のフレーズ。彼女には前日飲んでいる最中に「活弁好きですか?」ってドキッとするような事を聞かれました。そんなァ、ねぇ…。若さって怖いわ。
|04/29| 活弁コメント(0)TB(0)
新女性 あるぽらん

 師匠の二連投で働いた後は自分の仕事でゴザイマス。
 
 ●『新女性』(1935年 監督/蔡楚生 主演/阮玲玉)
   弁士/片岡一郎  キーボード/柳下美恵
でした。

 まぁ、どうにかこうにかこなした、というレベルか。

 中国映画を演っていて面白いのはメッセージ性の強い作品が極めて多いという点が挙げられるのです。残存率が低いので、私が観た20本程度の中国早期電影だけでは全体像は掴めやしないのですが、それでもアメリカ等の作品と比較すればメッセージのダイレクトさは嫌でも気付きます。

 そのメッセージとは何か?多くは抗日がテーマです。自分達の国を、命を、土地を守ろうという叫びが響いてきます。しかも映画を作っているのは若者達です。政治家ではありません。だから余計な駆け引きを考えて言葉を選んだりしない。無論、検閲もあったでしょう。フィルムをカットせざるを得ない事、字幕を書き換えねばならぬ事もあったでしょう。けれども、現代の日本の様に、自分の国を愛そうという最も当然の言葉にケチを付けるような事はなかったのです。

 日本はその昔、アジアに侵略もしくは進出しました。その上で戦争に負け、大いに卑屈になってしまいました。英語が話せない事を恥じながら、日本語が不十分な事は気にも留めない。国を愛する気持ちと、戦争を分けて考えられない。やっぱりどっか異常と言わざるを得ません。しかしながら、その異常さは中に居ると気付かないものです。海外に行けば気付くかといえば、そう上手くもいかない処が、この問題の根の深さを物語っています。そんな時に中国の無声映画は一つの指針を与えてくれる様に思います。

 
|04/28| 活弁コメント(0)TB(0)
学士会 嘆きの天使

 昨日の豪傑モノと打って変わって神田神保町・学士会館にての『嘆きの天使』の上映。

 ●『嘆きの天使』(1930年 監督/ジョセフ・フォン・スタンバーグ 主演/マレーネ・ディートリッヒ、エミール・ヤニングス)
      説明/澤登翠 トークゲスト/高橋暎一

 この上映に関しては少し説明が必要であります。御通家の方は当然御存じのように『嘆きの天使』はトーキー、つまり声が出る映画。本来なら弁士の出る幕は無いのです。ところがトーキー初期にはスーパーインポーズの技術が確立されていなかったので、弁士がトーキー作品にも語りを付けていたのです。本作も当時はそうした形式で公開された作品のようであります。

 どうやって語ったかと言いますと、幾つかやり方があったようで、代表的なのはトーキーの音声よりもデカい声で語る演り方、その他にもトーキーの台詞と台詞の間に急いで語るやり方等々、声が煩わしいってんで音声をカットして無声映画仕立てで語ったら、配給会社に見つかって大目玉を喰ったなぞという話も夢声翁の本には紹介されています。

 この日はトーキーの音声に声を被せる演り方です。といっても無理に大声を出すのではなく、映写技師(アタクシ)が音量を上げたり下げたりしておりました。思いのほか気を遣う作業ですよ、アレは。

 この形式での上映に立ち会うのは初めてだったのですが、印象としては、この上映形態は活弁ではなく、まさに映画解説でありました。活弁は映画を演芸化する装置としての機能を持っていますが、トーキーに声を被せても演芸化しないのです。互いに混ざり合わず、といって反発もしない。平行線上での表現と私は見ました。

 よく「今の映画の音を消して語ってみたら面白いんじゃないですか?」と言われます。そんな時、オイラはいつも「そうですねぇ~」と答えるのですが、本音を申し上げますと「何も音消さんでも」と思ってるのです。やりゃあできるけど、そこまでして語りたい作品は、そうはありませんのです。それに表現が違う。労多くて実り少なし、な気がするのです。嗚呼、今解りました。要は今の映画に語りを付けるのはメンドクサイ…。
|04/27| 活弁コメント(0)TB(0)
でした。演目は…

 ●『塙団右衛門 証城寺の狸囃子』DVD上映
 ●『剣聖荒木又右衛門』(1935年 主演・羅門光三郎)
             説明/坂本頼光
 ●『渋川伴五郎』(1922年 主演・尾上松之助)
             説明/澤登翠

 この日は集客に苦戦。松之助主演の作品でこれ程長尺が残っているモノはほぼ無いので大変貴重なのです。だがしかし人は来ない。思うに貴重な作品というのは、関心のある人は一度は観たいと思うはずですが、それは裏を返せば一度観れば充分ということになる。

 無声映画は珍しい、貴重だと誰もが思っています。しかし1930年代半ば無声映画が撮られなくなって以降、今ほど容易に無声映画を観られる時代は無いと断言が可能です。無声映画のDVDは500円から10000円の幅でタイトル、クオリティ様々な作品がが発売されている。インターネットで調べればどんなフィルムが現存しているか調べる事も出来る。

 それに比べて戦後の時期の無声映画上映のポスターやチラシを観ると「二度と観られぬ!」だとか「国宝級」だとかの惹句が踊っている。結果として二度と観られなくなってしまった作品もあるでしょうが、その後、数十年経ってみればビデオ・DVDで家庭での鑑賞が可能になっている作品も少なくない。でも、こんな未来を予想した人は殆どいないのですから「二度と観られぬ!」には相当のリアリティがあった訳です。だからこそお客さんはノスタルジーも含め、熱気を持って無声映画の上映会場に映画を観に、弁士の語りと楽団の音楽を聴きに会場に詰め掛けたのでしょう。

 映画史に詳しくない人でも無声映画が珍しく無くなってきている事は感覚で捉えている筈です。でも送り手の多くは無声映画が貴重だと思っている。歴史や残存率を知っているが故の認識です。

 おおざっぱに言えば無声映画が珍しく無い。けれど個々の無声映画は珍しいと言う事になります。送り手が「この映画は貴重だ」と思って上映しても、受け手は「無声映画なら観た事ある」と判断してしまう。送り手と受け手の間に、今までに無いズレが生じて来ているのではないでしょうか。そのズレを端的に表していたのが今回だと考えてみる必要はありそうです。

 また、この日は声帯模写の白山雅一先生がいらっしゃいました。大河内の声色をやって頂き場内喝采。今回改めて気付いたのですが白山先生、おしゃべりが上手い。白山先生にフリートークをお願いすると、長くなる傾向があるので主催者泣かせな方なのですが、それはタイムキープの問題であって、白山先生のおしゃべりはダレないのです。客席をみていると実に皆、楽しそうに聞いているんです。やはり一代の名人と言えましょう。しかもお若い。

 アタシは以前、酒席で白山先生の隣に座らせて頂いた事がありまして、その席で白山先生に「おい片岡、虎造やれ」と命令された事があります。アタシは声色を演りません、出来る訳がない。でも白山先生の命令ですから演りましたよ「誰かお忘れじゃあ御座いませんか」ってね。似るも似ないもあったもんじゃない。ひとしきり皆で笑って(アタシは笑われて)、おもむろに白山先生が虎造を演るのです。あまりの見事さに全員が唸ったという…。白山先生にイジられた。これは芸人にとって名誉な事です。しかもその席では真横で円生も演って下さいました。至福の時間と申せましょう。

 がんばっていきたいものです。アタクシも。

 
|04/26| 活弁コメント(0)TB(0)
 吸血鬼ノスフェラトゥ


 今週末は仕事ラッシュなのですが、実は5月が全然仕事がありません。誰かオイラに仕事を下さい。安くやります。月に一つはネタおろしをしないと不安なのですよ。勉強会でもやるかね…。

 ま、いいや。昨日は『新女性』についてつらつら書いたので、今日はやっぱり『吸血鬼ノスフェラトゥ』について書きましょう。

 名画と呼ばれるものには幾つかタイプがあって、一つは多くの人が感動できる作品、それと他に歴史上何らかの役割を果たした作品がそれです。近年でいえば『マトリックス』は確かに名画なのです。好き嫌いではなく、役割の問題として映画史に確実に名を残す作品という意味において、ですが。

 『吸血鬼ノスフェラトゥ』もやはり映画史的な名画に分類されるでしょう。詰まらんのではありません。誤解なきよう。最初の吸血鬼映画として名を残しているのと、偉大なる監督F・W・ムルナウの作品である為に史的価値の方が作品の娯楽性を上回ってしまうのですね。ある意味不幸な映画と言えるかもしれません。最初の吸血鬼映画と書きましたが、恐怖映画としての役割は完全に終わっています。怪人ノスフェラトゥは我々の眼から見れば何とも愛嬌のあるモンスターです。自分で自分の棺桶を小脇に抱えて歩く姿などは可愛らしいとすら思えてしまうのです。しかしながら本作は実験的な映像技法が多用されている事でも有名で、サイレント映画に眼が慣れてくるとカット繋ぎの上手さというのは素晴らしいのです。

 …何か無難な紹介ですな。どっかから写してきたみたいでイヤな文章です、これは。書いてて面白くない。なら書かなきゃいいのですが、書いちまったモノは仕方ない。

 ええとね、師匠が大好きな映画です、これ。どうしてかは知りません。アタクシも好きな映画です。どうしてかというと、暗くて湿気の多い物語が好きだから。以前、半年ほど荻窪で会をやていたのですが、その時のラインナップが『カリガリ博士』『吸血鬼ノスフェラトゥ』『巨人ゴーレム』『死滅の谷』他でした。見る人が見れば解りますね、アタクの病理性が。この作品は演れと言われたのではなく、自分で演りたいと思った作品です。いかにも友達少なそうな作品群です。事実少ないのです。

 こうした古いホラーはとても好きなのです。小説でもラヴクラフトは随分読みました、高校時代に。友達が少な……。

 でも今のホラーは嫌いです。クラシック映画ファンにありがちな「情緒が無い」とかいう理由ではありません。単純に怖いからです。アタシのホラー映画嫌いはテレビでやってた『バタリアン』からです。多分9歳の頃。吹き替えが怖かったのですよ、そりゃもう。でも調べると『バタリアン』ってホラー・コメディというジャンルになってるのね。今見れば怖くないのでしょう。見ないけど。

 よくホラー映画好きが言うぢゃないですか「怖いのが面白いのに」とかって。あいつらは解ってないのです。怖いのは怖いんです。面白くなんか無い!あいつらは神経が麻痺してるからホントは怖がってないのです。アタシは繊細な神経を維持しているのでホラー映画に対して本気で怯えてます。ホラーでなくとも、ビビらせる作りの映画は怖いのです。時間の都合で観られる映画がシャマランの『サイン』しかなかった時も決死の覚悟で観たのでした。もっとも『サイン』はあまりのアレさにナンでしたが。

 そんなアタクシでも『吸血鬼ノスフェラトゥ』はお勧め出来ます。味わいのある映画です。怖くないし。本作は1978年に『ノスフェラトゥ』としてリメイクされておりまして、こちらはまぁまぁの出来。さらに2000年には『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』という『吸血鬼ノスフェラトゥ』にインスパイアされた映画が公開されています。設定が中々凝っていて『吸血鬼ノスフェラトゥ』でノスフェラトゥを演じたマックス・シュレックという役者が本当に吸血鬼だったら?という物語でした。馬鹿馬鹿しくていいやね、このテの映画は。悪くない出来でした。

 しかしながら日本人は吸血鬼映画を本質的には理解出来ないのではないかと思います。妖怪・モンスターは民族の歴史、習慣と密接に関わっています。アチラの方は無意識に吸血鬼に対してある種の認識を持って居るはずですが、我々にはそれがない。反対に日本文化に興味の無い日本人でも四谷怪談位は知っている。といことは無意識のうちに幽霊に対しての認識もある訳です。実際、海外で牡丹燈籠をやっても「約束を破った男が悪い」でお終いだそうです。道成寺、四谷怪談、牡丹燈籠に見られる女性の復讐譚のテーマは善悪の問題ではなく、女が相手を想う、その力がテーマなのです。ところがこれが解ってもらえない。そ、この問題はじっくり考えたいのでこれ以上書きません。

 何の話でしたっけ?仕事が欲しいって話しでしたか。いつでもお待ちしています。
 
 誰か一緒にラヴクラフト物で無声映画撮らない?絶対サイレント向きの素材だと思うのですよ。さもなきゃ江戸川乱歩でもいいや。

 そういう訳なので、土曜の中国映画と日曜の若手寄席にお運び下さいま~せ~。詳細は左上。
|04/25| 活弁コメント(0)TB(0)
ルアン・リンユイ

 画像はルアン・リンユイ後ほど解説します。

 今週は色々ありまして、駆け足で紹介。4日間ありゃ、どっかにはこれるでしょ。いらっしゃいな。なんなら全日。

 

 ●26日 無声映画鑑賞会 18:30~ 門仲天井ホール
 『塙団右衛門 証城寺の狸囃子』DVDによる上映(つまり宣伝)
 『剣聖 荒木又右衛門』弁士/坂本頼光
 『渋川伴五郎』弁士/澤登翠
  アタシは出ません。会場にはいます。
 ●27日 活弁in学士会座 18:30~ 学士会館
 『嘆きの天使』弁士/澤登翠
  アタシは出ません。会場にはいます。
 ●28日 あるぽらんキネマ劇場 15:00~ あるぽらん’89
 『新女性』弁士/片岡一郎 音楽/柳下美恵
 中国の無声映画を弁士と生演奏で。
 ●29日 門天若手寄席 19:00 門仲天井ホール
 『吸血鬼ノスフェラトゥ』弁士/片岡一郎
 講談/一龍斎貞橘
 ガッコの同期、貞橘との勉強会です。
 活弁と講談が同時に楽しめてお徳(?)ナル会。

 とにかく私の出る会へお越し下さいまし。にしても連チャンの公演で、演目が『新女性』と『吸血鬼ノススフェラトゥ』とは冷静に考えれば身の程知らずもいい所です。かたや中国映画史上に名を残す阮玲玉(ルアン・リンユイ)の主演作、かたやムルナウの監督作ですからな。落語だったら二つ目になりたての『紺屋高尾』と『牡丹燈籠』を立て続けに卸す様なものです。馬っ鹿じゃねえか、コイツ。
|04/24| 活弁コメント(0)TB(0)
名人 小林信彦

 『名人 志ん生、そして志ん朝』小林信彦 
 
 電車で読む本が無かったので急遽購入して読んだ本。

 アタシは志ん朝師匠には間に合ってます。ただそんなに多くの高座には接してません。まだまだお元気で、いずれ志ん生も襲名するのかな、と思ってました。焦って聴きに行く事もなかろうと甘く見てたんですね。だから驚きました、志ん朝師匠がお亡くなりになった時には。思わず声が出ましたもん。

 亡くなってしまった以上、どう望んでも実物に触れる事は叶いません。その人の記録を見聞きし、その人について語られる言葉に耳を傾けるしかないのです。特に本人が記録を余り残していない場合は、他者の言葉は非常に大きな意味を持ちます。しかし、そうした言葉の中には「俺は○○を良く知ってるんだ」式の優越感を多分に含んだ自慢話も少なくありません。少なくないのですが、まぁ仕方の無いことでしょう。アタシもいずれやるでしょうし。

 とはいえ、どうしても合わない意見があるのも事実でして、本書がつまりそうだったのです。著者が志ん朝師匠にいたく傾倒してるのは伝わってきます。その気持ちは解ります。それだけ強い魅力を持った師匠でした。ただ、本として出すには好きが過ぎます。雑誌に載せるコラムらな良いでしょうが、落語本として出すには未整理な思いを重ねた文章が幾つも並ぶ構成は鼻につくし、チト冷めます。

 よ・う・す・る・に、この本の内容には共感しかねるって事なんですけどね。一芸人、一落語ファンとしてはどうしても共感できない。読み進めていくうちに何に拒否反応を示しているのかが明確になってくるのです。以下『』内、引用。


 『「歌笑純情詩集」なるふざけたモノローグは、一度は笑えても、あたが続かない。歌笑が突出したのは、他が混乱していたからで、歌笑、痴楽、小きん(のちの五代目小さん)が若手三羽烏だったというから、レヴェルが低い』

 『テレビで桂米朝が、
 「東京の落語界は、ずいぶん淋しくなるでしょう」
  と言っていたが、言いかえれば、東京落語は終わったということである。』

 『関西の落語界は桂米朝という指導者のもとで、これからのびてゆくのでは、と思われる。
  しかし、東京はムリだ。江戸弁といわぬまでも、東京弁(アクセントほか)が怪しい人々がいくら集まっても大衆を魅了するこつはできないのだから』

 『地方から出てきた学生が、オチケンに入ると、まず、方言、訛りを抜かなければならない。その上で東京言葉とはいわないまでも、標準語を習得する。落語のどこがすばらしいのか、よくわからないから、理屈を考える』

 悪い部分ばっかり抜いてます。実際はもう少し読める本です。ただ、この人、評論家ですぜ。歌笑の人気を戦後の混乱だけで片付けるのは余りにも乱暴ですし、「淋しくなる」がどう言い換えたら「終わった」になると言うのか。米朝師匠こそいい迷惑だろうと思うのです。贔屓の芸人が世を去って何を思おうが自由ですが、少なくともこんな程度の考察で金を取ってはイカンと思うのでアリンス。

 志ん朝師匠は後進の指導に力を入れていたそうです。

 志ん朝師匠が亡くなった時に「志ん朝死して落語は死んだ」という的外れな記事が少なかった事はファンの喜びでした。

 それなのに、志ん朝ファンを自認する著者が得意になって志ん朝師匠の死と江戸落語の終焉を結び付けている事に堪らない寂寥感を感じるのです。アタシはこの場所で活弁界について愚痴々々言ってますが、それは活弁が何とかなると思えばこその発言です。少なくとも10人や20人は食えるだけの内容は活弁と無声映画は持っています。だから愚痴るのです。ただ好きな芸人が死んだと言うだけで、その芸能が終わったなどという文章は日記帳に記すべき物です。繰り返して言います、こんなんで金取るな。ああ、羨ましい。ああ、悲しい。
|04/22| 読書コメント(0)TB(0)
 とか言う番組が始まるんですか?電車でやたらに広告を見ます。前からやってなかったかしら。良く分らん。

 オーラ、よく聞く言葉ですが実際は何なのか知りません。メディアで取り上げられるオーラという言葉のイメージとしては、人間の内面からなにやら漏れてきて、その人の本質を表していて、色彩感を伴う事が多い物のように思います。でも多分、本来はどこかの国の神話か宗教上の用語ではないのではないかと思って調べて見たらギリシア語で息の意のアウラーが語源なのだそうです。知ってみりゃ何のことはないのです。

 今日、オーラや前世といったオカルトイメージの言葉が氾濫しています。しかもそのどれもこれもが原義を置き去りにしてイメージが一人歩きしている。その為でしょう、霊感商法が後を絶たないのは。オカルトという言葉は確か隠秘学と和訳を当てていると思います。つまり隠され秘められているものですから俗人たる我々が良く分らんのは仕方がないのですね。ただ、学の字を伴っていることからも判断できるようにオカルト本体は厳然たる知の形態なのです。決して唐突にご先祖様が説教を垂れたり、理不尽な要求を神様がしてきたりする事はないのです。ただ非常に分りづらいので我々はオカルトを無秩序なものだと誤認しているのが現状です。少なくともモロモロのオカクティックな表現にはきちんとしたルーツがあるのだと言う事を知っておけば意味不明の霊感商法のは引っかからずに済むのは当然の道理なのです。

 オカルト商法の基本的なやり方は利用者を乗せる方法(ex.壺を買うとお金が儲かる。水周りを直すと家の気が良くなって病気がなおる)と不安にさせる方法(exお祓いをしてもらわないと霊が祟る。悪い相が顔に出ている)に大別されます。町で「手相を見せて下さい」って声を掛けてくる連中がいますね。彼らにワザと捕まった事があるのですが、あの人達が最初にするのは日常会話です。その会話の中で相手を乗せるべきか不安にさせるべきかを判断してるみたいです。アタシがやたらに前向きな事ばかり言ったら「とても珍しい線が出ています。私も見るのは初めてです。何十年かに一度の好機が近づいていますので、この好機をものにする為に私の先生の所に行きましょう」と言われました。

 これなどはまだまだ分り易いですが、弱っている時に追い討ちをかけるかの如くもっともらしいエピソードを並べられては引っ掛かるのは致し方ないと言えます。どうしてって、彼らはプロなのです。楽しませる話術は無くても他人を追い込む話術は芸人の比ではありません。ですが所詮は騙すための論理です。言葉のルーツも含めて考えれば綻びだらけなのです。仏教とイスラム教と神道とキリスト教の教えの都合のいい部分だけを寄せ集めたような論理が殆どだと言ってもいい。だったら言葉の原義を少し学んでおくだけで嘘が透けて見えるようになります。前世の因縁で現在の自分が不幸になっていると言われても、前世という現象が何のために設定されているかを考えれば怯える必要はなくなると言う訳。

 幽霊の正体見たり枯尾花、とはよく言ったものでオーラとやらの正体は息だと思っておけばいいのです。

 あれです、別に無闇に霊的な現象を否定したいのではありません。そういったことは実際にあると思っています。スピリチュアルメッセージの方が本物か偽者かは知りませんが、彼はパフォーマーとしては一流です。あれはあれでいいんじゃないでようか。ただ、時々メディアに出てくる神霊現象肯定論者は馬鹿が多すぎます。感情だけで霊は存在すると叫ばれても多くの人は冷めるばかりですわね。そもそも現在の科学や化学は元々オカルトだったものばかりです。幾つもの現象に対し実験を繰り返して事実を見きわめ、時代の変化を受けオーバーグラウンドに登場した知識が現代の知識ですから神霊現象肯定論者が科学者と対決する姿勢そのものが間違っているのです。勝ち目がある訳が無い。なぜならば神霊主義者が信じている超常現象が科学によって観測されない限り科学者は負けません。でも、科学によって観測されれば、それは科学の範囲で取り込める現象ですから超常現象とは呼べなくなってしまうのです。

 端的に言うと大槻教授は絶対に辞表を提出しなくていい仕組みになっているのです。それをムキになってピンボケしたような写真を持ち出して「オーラが写ってます」なんざ笑止の極みですよ、ホント。

 大体ね、ちょっと有名人に会うと「あの人はオーラがでてた」って言う人いるでしょ。勝手にそいつが感じてるだけ、んなもん出てる訳ないのです。アタシはこの数年間、仕事で何人かの一線で活躍されている方々と会いましたけど、誰も出してませんでした、オーラなんて。奥田民生さん、妻夫木聡さん、立川談志師匠、藤田まこと先生、西村由紀江さんとはお話もさせていただいてます。舞台や演技の瞬間は輝いていても楽屋や休憩時間にオーラなんぞという無駄なモノを垂れ流している人はいませんでした。奥田民生さんなぞは完全にスタッフに混ざっていて隣に座るまで気付かなかった位です。そりゃ「お前に感じる力が無いからだ」と言われりゃ一言もありません。でも、スタッフの中で変な存在感出してる奥田民生と完全にスタッフの一員みたいになって笑ったりはしゃいだりしながらプロモDVD作ってる奥田民生とどっちが素敵な奥田民生かっちゅう問題ですよ。アタシは後者のがカッコいいと思います。だからこうした一線の方々からオーラを感じなかった自分のセンスだけは自信があるのです。

 
|04/20| もやもやコメント(0)TB(0)
 ハシゴをした日ナリ。
 
 まずは活動倶楽部第107回。いわゆる自主上映会という非興行上映会の活動倶楽部、運営は善意で行われているので当然儲けはいつも無し。NPO(非営利団体)と称してイロイロ儲けている方も多いと聞くが、こちらはそんなことはない。映画が好きという気持ちで続いてきた会も次回で煩悩の数と同じになる。いやはや、恐れ入ります。

 この日の演目は

 『海浜の女王』
  説明/桜井麻美 ピアノ演奏/柳下美恵
 『進軍』
  説明/坂本頼光 ピアノ演奏/柳下美恵

 の2本。

 『海浜の女王』は最近復元された貴重な映像でもあり、弁士が付いての上映は戦後初となるので会場は(おそらく)これ見たさのお客さんで一杯、上映中はDVDの再生トラブルなどもありましたが、んまぁそんな程度で驚くようでは弁士は務まらない、伴奏も又しかりであります。縮刷版からの復刻ですので話はダイジェストに近い状況でした。少なくとも『海浜の女王』から想起されるような内容の話では全く御座いません。海浜の情景は冒頭のみだし、女王は女にあらずだしね。ま、よろし。これからもこうした小品が復元される事を切に願う次第です。本数まとまったらソフト化してくれないものかしら。

 『進軍』は昭和5年の松竹超特作映画でありまして、超特作の例に漏れず冗漫さが目立ってしまう作品。ところどころハッさせられる部分はあるのですけれど…。思うに超特作というものは、お金をふんだんに掛けて撮った映画ではなくて、お金を掛けなければならなかった映画なのでありましょう。通常なら予算をやりくりしてアイディアを捻り出して、それが工夫と呼ばれるのですが、いきなり過剰な予算を与えられれば工夫の方向性は変わる、お金の使い方はイビツになるで、結果、どうにもイマイチな作品が出来上がってしまうのではないかしらん。近年では『デビルマン』がそうした作品としての評価を一手に引き受けている感がありますが私は未見なので、その辺は語れません。いつか『デビルマン』『最終兵器彼女』『鉄人28号』の三本立てで見ようと思ってるのです。それまでのお取り置きなのです『デビルマン』は。ともあれ2時間の大作を柳下・坂本両氏により手堅くまとめての終演となりました。

 最近、毒っ気の強い事ばかり書いていたので、今回は当たり障りのない文章にしてみました。どう?

 そして夜は下北沢で立川談四楼独演会でした。ことらは第151回隔月の会でこの回数ですから、こちらも大変な会です。

 素人時代の高座は拝聴しているのですがプロになってから機会のなかったらく兵さんの高座にようやく触れる事ができたり、三四楼さんの「イチ、ニの三四楼!」がだんだん楽しくなってきてる自分に気付いたり、キウイさんの二つ目試験顛末記を場内興味津々で聞いたり、打ち上げで歌六師匠とSPレコードの話をさせて頂いたり、勿論、談四楼師匠の落語(この日は『三方一両損』と『品川心中』)を拝聴したりと充実の一夜でした。この会は終演後に会場で打ち上げがありまして、お客さんは誰でも参加できます。といっても面識のある人が一人もいなくて「じゃあ参加しようかな」という人はなかなかおりません。当たり前の話ですが。そんな場に残る事が出来、師匠とお話そさせていただけるのが、芸人になって6年を軽く過ぎているのに未だに嬉しいのです。オイラはいまだに素人なのかもしれません。

 そういや言う事がやたらに乳臭いものね。それに比べて…。

 文章から毒が出てませんように。
|04/17| 舞台コメント(4)TB(0)
AQUA

あの曲、何ていうんだろ?

 誰にでもありますやね。アタクシにも御座います。そのウチの一曲が解りました。人様にはどうでもいい事です。これだけ私的な話題というのも珍しいのではないかと思う次第。その曲がAQUAの『CARTOON HEROES』だった訳です。初めて聴いて3年位になりますか…。

 で、この曲にはさらに私的な思い入れがあるのです。共有できる人は、そうさね、10人前後か。その人達との接点はありませんが。
|04/13| もやもやコメント(0)TB(0)
 アクセスが日に20を越えると「またバニラが紹介したかしらん?」と、つい思ってしまう小者の片岡一郎です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 先日、もう嫌だと書くためだけに川内康範先生の名前を書いたら半日でトラックバックがきました。もっともトラックバックがどんなものか未だに良く分ってないのですが、そんな事よりも心血注いで書いた須田貞明が無反応で、シャレ未満の川内康範に反応があるというのが無闇に悲しかったりしました。

 悲しいと言えば先日の事であります。電車に乗ろうとしたら一緒にいた方に「SuicaもPASMOも持ってないの?つくづくアナログ人間だね」と言われてしまいました。良く分らんのですが、アナログ人間というのは最新の物を使わない人ですか?使えない人ですか?アタシは前者です。興味が湧けば大抵の事は出来るのです。事実、やろうと思えば字を大きくしたり小さくしたりおまけに色を変えたりなんかも出来るのです。まあ凄い。でもまあ、職業柄アナログなイメージが付きまとうのは致し方無いのでしょう。ただ、何にも出来ない奴が「アタシ、アナログ人間だから」と言ってるのを聞くと腹が立ちますね。

 とまあ、そんな事を書いていたら高校時代からの友人がここを発見して「苦労してるようですね」と言ってきました。そういう彼も中々の苦労人でありまして、若いうちの苦労は買ってでもしろとは言いますが、そろそろ買わずに売りにまわりたいと思う今日この頃です。お金もないし。誰か買う人いないかしら。いないですか、はぁそうですか。

 なんにしても苦労が透けて見えるのだとしたら、アタイの不徳の致すところです。比較的好きな事を書いているのにも関わらず、印象が苦労日記なのは生来私が愚痴っぽい為でありましょう。しかしながら、かの志ん朝師匠も酒飲んで他人の悪口言ってる時が一番愉快だと仰ってましたから愚痴とは大切な作業なのです。大体ここに書くときには一応内容を考えるのです。これは書いてもいいものか、それともよそうか、自分なりに考えるのです。でも冷静になって考えて見ると、自分と自分の周囲の極限られた人にとっては重大事件でも、世間の人にとってみたら退屈なエピソードでしかなかったりするのはママあることでして、なら自分の知ってる事を何もかもブチまけてやろうかという衝動はのべつに顔を出すのであります。

 たとえば●●●が××と△△な事とかさ。

 こんな配慮が必要なほど世間は私を知らないし、活弁という文化においてもそれは同様だったりします。ならいっそ…。キリが無いね。

 というような、なんでもない事を書いても、これを更新するとその後二日間は30くらいのアクセスがあるのが不思議でなりません。誰が見てるというのでしょう。自分の公演で確実に30動員できるようになれば小さな劇場で毎日でもやるのですがね。機会があったら来て下さいな、ここ呼んでる方。左上にプロフィールかなんかの場所に公演情報を載せておりますので。そういや、どこかで公演があった次の日もアクセスが伸びる傾向があります。でも、絶対数が伸びないトコ見るとそれ程魅力的な事が書かれていないという事でしょう。わかっちゃおりますけど。

 今回は思いついた事をまとめずに、つらつらと書いてみる訓練をしてみました。再見。
              片岡一郎
|04/12| もやもやコメント(0)TB(0)
 弁士列伝 山田無声の回に追加情報を書きました。もしひょっと参考にされている方が居たらだうぞ。
植木等

 植木先生がお亡くなりになって少し経ちます。写真は我が家に一枚だけあるクレイジーキャッツのLP盤であります。

 アタシはシャボン玉ホリデーを観ておりません、無責任男シリーズも殆ど観てません。なので植木先生について語る資格はないのですが、しかし少しだけ語らねばなりません。なぜならば『そのうち何とかなるだろう』はアタクシの人生のテーマソングなのです。

  金の無い奴ァ俺ンことへ来い
  俺も無いけど心配するな

という歌詞です。耳で覚えているだけなので細かい部分は違いますが。この歌を初めて聴いたのは確か小学生の時だったと思います。♪そ~のうち何とかな~るだ~ろ~お~、と朗らかな歌声で語られる人生観は先生からも既に変わり者呼ばわりされていた片岡一郎少年に熱く響いたのでした。感動したオイラは次の日この感動をクラスで話し、一回だけしか聴いていないこの曲を歌って聞かせ、ますます変わり者扱いを受ける事になり今日に至るのです。

 皆さんもお分かりかと思いますが、世の中は往々にして「そのうち何とか」ならないものです。なぜ小学生のアタシが、かくもこの曲に感動したかといえば、そんな何とかならない現実を感じていたからなのでしょう。といっても、その時はまだまだ頭の中の話でして、長ずるに従い何とかならない閉塞感はリアルな感覚になってゆきます。あまつさえ、「そのうち何とか」しようと地道に努力しているとアッサリ上前を撥ねたりする奴なんかもいて何度ヤサグレたか知れません。弁士を志した当初など、どれ程…。いいけどね。

 でもだからこそ口ずさむのです「そのうち何とかなるだろう」と。ただ、この名曲にも欠点がありましてカラオケで歌うと若い女性が大いに引きます。しょうがねえぢゃねえか、こっちゃ小学生の頃からずっと好きな曲なんだから。

 わかってるわかってる、黙って俺について来い!
|04/10| もやもやコメント(0)TB(0)
 もう嫌だ。なにがってブログに飽きた。近いウチに辞める気がする。とにかく川内康範ばりに「もう嫌だ」と言いたい。

 とにかく嫌になっているのでフィクションを書きます。実在の某声優さんとは関係ありません。

 
|04/09| もやもやコメント(0)TB(1)
 三日間に渡る企画の最終日です。最終日ですがアタクシの出番は無しでゴザイマス。こんな内容で御座んした。

 『日曜日の人々』
   説明/桜井麻美
 『火の玉レポーター』
   説明/澤登翠
 両作品ともピアノ演奏はゲルハルト・グルーバー

 『火の玉レポーター』は先日自分で説明した作品です。それを師匠が演るという、私にとってはさらし首みたいなモンですね。んでまぁ感想ですが『火の玉レポーター』は見事なB級映画でした。手前で喋ってる時にはグルーバーの音楽もあり、それなりにスリリングだったのですが一歩距離をおいて見るとスピード感の無さがいかんともし難い。エディ・ポロも全盛期を過ぎていて出涸らし感が否めない。そりゃあワイルダーも怒るわなぁという映画だった事に改めて気付きました。
 地の語りに往年のドイツ映画を散りばめるという師匠の言葉遊びにはナルホドと関心しきり。観る側も演る側も楽しむつもりで観ないとイカン映画です。決してクリティックに観てはなりません。

 映画自体はB級でも3流でも極めて珍しい作品なのは間違いありません。公開当時を除けば上映されたのは本公演を含めて3回程度だっていうんだから驚きぢゃないですか。観た方はラッキーなのです。おそらくアタシがもう一度『火の玉レポーター』を語ることは無いでせう。
 
 『日曜日の人々』ですが、こちらは先日は師匠が語って、この日は桜井麻美が演りました。こちらの作品は今日十分に鑑賞に堪える映像です。が、がですな、これを語るのはべら棒にムツカシイ。物語に起伏が無いとか、セミドキュメンタリーだからとか色々あるのですが、この作品は一篇の詩なのですね。詩の解説というのは存在という、その段階で野暮なものですから難しい。受け手の感性にゆだねる部分が大きい所以です。事実、師匠の語りで聞いたときには筋は途中で見失ってしまいましたがダレずに最後まで観ることが出来たのです。この日の桜井の台本では筋はとても解り易く楽しく観られます。しかしダレるのです。この辺の匙加減は弁士にとって永遠の課題となりましょう。その日の観客によってもどんな台本が適しているのかが大きく変わります。

 幸いこちらの『日曜日の人々』は商品化されております。アタシもどっかで演ってみようかね。

 それからこの日の最後に、本企画のプロデューサーから、アタシに関しての発表がありましたが、アレはまだ正式に確定してません。お客さんから「おめでとうございます」とか言われてしまいましたが、まだ決まってないのです。ホントお願いしますよ、まったく。
|04/08| 活弁コメント(0)TB(0)
国定忠治

 劇団若獅子結成20周年記念公演『国定忠治』でした。『国定忠治』の通し公演は42年ぶりの事だそうです。特別出演に新国劇出身の緒形拳さんも出演で御座いました。

 若獅子さんは新国劇解散のとき新国劇の遺志を継ぐべく笠原章さんが中心となって設立した劇団であります。ちなみにこの笠原さんは数年前に制作されたフルカラー無声映画『月太郎流れ雲』に平手造酒役で出演されており若干のご縁のある方です。

 新国劇といっても解る方はあまり居なくなってしまったのが現実ですが、演劇史・映画史を学ぶものにとってははずす事の出来ない劇団なのであります。創立者の澤田正二郎は元々芸術座におりましたが、かの松井須磨子と喧嘩して芸術座を飛び出します。舞台の夢を捨てきれない澤田は新国劇を結成するも客足はサッパリ、進退窮まって上演した『国定忠治』は殺陣の新しさが大いに受けて一躍人気劇団となったのでした。

 
|04/07| 舞台コメント(0)TB(0)
 再三言っておりますが、弁士は自分で台本を書きます。なので同じ作品も人によって印象が大きく異なります。また同じ演者でもその時の考え方、ひいては気分も台本や演じ方に影響を与えます。

 この10日間、アタシはビリー・ワイルダー作品に挑んでおりました。寝ても覚めてもビリー・ワイルダーのことばかり考えたりは勿論しませんが、真夜中に映像を観ながら一人で孤独に台本を書いているときはビリー・ワイルダーを意識します。

 ところがです、台本書きに疲れて気分を変えようと、ふとテレビをみたら、そこにもビリーがいたのです。軍隊式トレーニングを基にしたエクササイズを指導する51歳の彼です。彼のインパクトは凄まじく台本書きが30分間停止してしまうこともしばしば。ネットでの注目度も急上昇、買っちゃったと報告しているブログ多数。それもこれも全て彼のインパクトに寄るところが大きいと判断されます。それなりにキツイらしいです。ぐうたらな芸人にゃ無理でしょう。でも彼は語りかけてくるのです。

 人生を変えてみないか

 もう1セット

 飛行機ブンブン

 気合だ

 何度も観てると少し欲しくなりますビリーズブートキャンプ。買わねぇけど。でも誰か買ったら見せて。

 無意味に筋肉モリモリの弁士がいたら面白いかもしれない。

 
|04/06| もやもやコメント(0)TB(0)
4月4日チラシ裏

 サイレントフィルムデュオの二日目。演目は昨日と同じ、会場は麻布区民センターでした。

 ワイルダーは1906年生まれ、21歳で映画界に入って約二年間はゴーストライターとしてシナリオを書きまくっていたそうです。今回上映の『Hell of a Reporter』は彼が初めて名前をクレジットされた作品であります。となれば大抵は映画史でも大事な作品として扱われそうなものですが、本作は例外でして扱いは極めて低いのです。なぜかと言うと、会場では言いませんでしたが、ワイルダー自身はこの作品に名前が残っているのが嫌で仕方なかったらしいのです。ある映画史家がこの作品を話題に出したとたん「私たちを困らせるつもりか!」と大変なご立腹であったそうです。

 御覧頂いた方は解るかと思いますが、本作はB級というか3流というか、筋もご都合主義丸出しだし、撮影もあまり上手くない、カットも繋ぎ方が下手で無駄も多いと、おおよそ名作からは程遠い作品です。主演のエディーポロもアクションスターとしては盛りを過ぎた感じで精彩を欠くというありさま。ぢゃあ全然駄目かっていうと、なんとなく楽しくは観られる辺りが不思議な作品です。邦画に詳しい方に説明をするなら一言で済みます。

 ん~とね大都映画

 解ったでしょ?一部の方は。そんな映画ね。

 悪し様に書きましたが、これ以下の映画は勿論沢山あります。しかし、ワイルダーとしては我慢のならん作品でしょう。『サンセット大通り』『お熱いのがお好き』等の名作傑作を世に放ってきた彼のキャリアにはふさわしくないかもしれません。でもワイルダーは自分で言ってるのです、完璧な人間など居ない、とね。

 ちなみにワイルダーはゴーストライター時代に約200本のシナリオを書いているそうでして、ということは現存しているフィルムで、実はワイルダーの脚本作品というのが存在している可能性もある訳です。そんな発見が今後あればいいですな。

 ゴーストライターで有名なのは矢沢永吉の自伝『成り上がり』を糸井重里が書いた事が有名ですね。名前が出てしまってはゴーストもへったくれもありゃしませんが、かくして『成り上がり』は名著となったのです。山野一郎先生の『映画人情ばか』も筆を執ったのはゴーストライターだという話もあります。ゴーストライターの人の名刺には職業は何と書いてあるのでしょう?ゴーストライターって書いてあったら面白いのにねぇ。
|04/04| 活弁コメント(0)TB(0)
4月4日チラシ表

 サイレントフィルムデュオという企画で喋って参りました。場所は有楽町の日本外国特派員協会でござんした。
  
 演目は
『火の玉レポーター』(Hell of a Reporter)
          説明/片岡一郎
『日曜日の人々』(peoole on Sunday)
           説明/澤登翠
ピアノ演奏は両作品ともゲルハルト・グルーバー

でした。グルーバーはこの企画のためにウィーンから来日、見事な演奏を披露してくれています。アタシは英語が全然ダメな子なので自由にコミュニケーションをとるっちゅう訳にイカンのですが、彼は非常にシャレの解る方でして、片言の英語でも楽しくお話が出来るのです。少なくとも外国の方に「弁士じゃ食えないだろ」と指摘されたのは彼をおいて他にありません。やたらに文化ぶらない所がとても素敵な人なのあります。
  
 とてもとてもマニアックな話をします。グルーバーは無声映画伴奏者として非常に優秀です。どういう風に優秀かというと、彼は映画をみて、あるいは弁士の声を聴いて自分の演奏を抑える事が出来るのです。これは中々出来るこっちゃありません。無声映画は観てるだけで解るなんてのは極々限られた変態的趣味の方だけですから現代では音楽や語りを付して、一般的な娯楽になるように努めるのです。ところが、この匙加減が難しくて、音や声を足しすぎれば「五月蝿い」と言われるし、少なすぎれば「解んない」と言われるのです。ことに海外で活躍している伴奏者の方々はパワフルな演奏をされる方が多く、朝日ホールやフィルムセンターで拝聴するとそりゃあもう弾きっぱなし、息つく暇も無い位、そういうスタイルの方が多い。なぜ、沈黙の芸術と謳われる無声映画がかくも多くの音や言葉を生んでしまうかは、よぉく考えなければならん問題ではありますが、話はグルーバーです。

 彼は、そんな中にあって状況に応じて演奏を抑える事ができる、という事が凄いのです。技術が高いかどうかはオイラはミュージシャンではないので判りません。んが、彼のスタイルは日本人の好みに合います。確実に彼は此処日本においては極めて優秀な無声映画伴奏者といえるのです。
 
 日本人の好みと言いましたが、単純に音楽性の問題では終わらん所が此の問題の面白い部分で、絵画を例にあげても同じです。西洋の油絵はカンパスを完全に絵の具で塗り固めてしまいます。ただ塗っただけでは飽き足らず、その上にまた塗ったりなんかして絵を完成させます。これが西洋。ところが日本画、中国画、もっと踏み込めば書といった東洋の古い視覚芸術は隙間だらけです。白い大きな紙に墨だけ、しかも面積の大半が白いまま。これが東洋。

 決め付けてしまってはいけませんが、傾向としては解ると思います。そんな訳で、日本人は余白を尊ぶ傾向が強いのです。でも、いざ演者になると余白を創るのは非常に勇気の要ることなのです。この辺が難しい。

 では最後にマニアックな話をちゃんとします。あのね、それほどまでに優秀なグルーバーは、どちらかといえばマイナーです。フィルムセンター(日本のね)でも演奏した事がありません。世界的に有名な無声映画祭のポルデノーネ映画祭でも演奏した事が無いそうです。なぜか?ブーフヴァルトとツィンマーマンがブロックしてるんだってさ。そういや此の二人は日本にも良く来るね。
|04/03| 活弁コメント(0)TB(0)


 何をいまさらな本ですが、旬を過ぎた本を読むのが好きなのです。しっかし久々に辛い読書をしました。内容とか文章とか、色々あるんスけどね。電車で読んでて気分悪くなりました。不快感ではないです、乗り物酔いみたいになったのです。

 それ、ただ酔っただけでしょ。

 違うのです。『キリスト教概論』を読んでも京極夏彦を読んでも、講談全集『野狐三次』を読んでも酔った事はありません。『Deep Love』にやられました。続編が何作か出ています、んが、とてもじゃないが読めません。何というか小説になってないのですよ。普通、といってはいけないかもしれませんが、アタシの認識している小説というのは作者が伝えたい事があって、それを物語に託すのです。ところがコイツは物語に託さず、登場人物がテーマをヌケヌケと語ります。あまつさえ地の文でも被せるように人物の心理を解説します。

 読者の入る余地がねぇ。

 これが偽らざる感想です。著者はあまり本を読まない方なのかもしれません。文章が小説ではなく歌詞を読んでるような感覚になるのです。まぁ、そんな本があったってそりゃ良いんですが、問題はこれが大いにヒットしたっちゅうコトにあるんですよ。シリーズで270万部突破だそうです。借りて読んだ人もいるでしょう、古本って人もいるでしょう。大変な人数です。そいでまた大変な人数のある程度以上のパーセンテージが感動してるんです。だってね文章、下手なのよ。中学生が書いたのかい?って言いたくなるよ。どんなに素晴らしいテーマでも伝える方法が未熟なら伝わらないのが道理です。なのに大勢の人が感動している。ってことはその人達もおんなじ程度の文章力ってことです。危険ですよコレは。英語教育なんぞやっとる場合ではありません。日本語教育を徹底するべきです。日本語クライシスです。全国の国語教師は必読書といえましょう。自分の生徒がこの文章で感動してるとなれば何とかして名著に触れさせたいと思うはずであります。

 けなしてばかりは良くありんせん。ちょいと考えてみましょう。
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