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 真面目に書きませう。たまには。いやさ、いつも真面目なのですよ。
 
 ちょいと偉い人と会いました。大きな事務所の人ね。でもって例によって「何をやってるんだ」「弁士です」みたいな会話をしたのです。その人の見解としては活弁に目を付けたのは面白いと、ただ落語家か講釈師になって余技として活弁はすべきである、ってんですよ。何故かといえば活弁は二度三度と観に行く気にはならんちゅうんですね。でも落語は下らないと思うけど又観たい聴きたいと思うんだと。そういうことですわ。その方は良いお年で徳川夢声も知ってるし、夢声の活弁も聴いたことがあるんだそうです。今、アタシらが弁士の仕事を頂いているのは珍しいからで、あと5年もすれば仕事はなくなるのだそうです。

 納得がゆかぬ。

 いや、抵抗はしましたし、多少は意見を変えさせましたがね。しかし現実問題として芸能界にしてみりゃ活弁なんざ古臭くてどうにもならんものなのでしょう。前提としてそういう認識だということが物凄く良く解った一時でした。
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|06/30| もやもやコメント(0)TB(0)
 ちゅうことでした。上映作品を書くのはメンド臭いなぁ。でも資料だしね。

●『放浪三昧』
1928年作品
監督/稲垣浩
脚本/伊丹万作
主演/片岡千恵蔵、衣笠淳子
説明/澤登翠
●『国士無双』(部分・8分)
1932年作品
監督/伊丹万作
主演/片岡千恵蔵、高勢実乗
説明/片岡一郎
●『嗚呼 山中貞雄』
1985年マツダ映画社編集作品
説明/片岡一郎
●『ミレーの晩鐘(The Angelus)』
1926年作品
監督/Arthur Maude
主演/Margaret Morris

『ミレーの晩鐘』に関しては多分です。その『ミレーの晩鐘』ですがまあ珍品の部類に入る作品でして絵画の『ミレーの晩鐘』はこうして描かれたのではあるまいか?というのを大胆に映画化した作品です。アタクシは頑張ってバカバカしく演ったのですが、終演後ある方に「欽ちゃんの仮装大賞みたいなえいがでしたね」と言われてその切り口があったかとびっくりしたのです。成る程、そのつもりで語れば3倍はバカバカしくなった作品でした。惜しいことをした。でもどこかの美術館で大真面目に演ってみたい作品でもあります。
 
 『国士無双』はいわゆる伝説の名画ですね。マツダ映画社にはパテベビーからブローアップした断片が、別の場所には16㎜で販売されたプリントが保存されておりますが、そちらも断片。しかしながらこの写真はウケたウケた。本日上映プリントはマスターの問題もあり極めて見辛いプリントなのですが、笑いが繰り返し起こるのには喋っていて驚きでありました。どっかに全編ないかしら。
 
 『嗚呼山中貞雄』は天才監督山中貞雄の監督作品、脚本作品、消滅作品のスチール等を組み合わせて構成した編集映画であります。マツダ映画社には貴重なフィルムが沢山あるのですが、こうした断片を編集した作品に意外な掘り出し物があるのです。松田春翠はやっぱり偉かったなあと思う次第。

 『放浪三昧』は現存する千恵プロ最古の作品であります。監督が稲垣浩、脚本が伊丹万作ときて弁士を澤登翠なら文句ありますまい。画面がもう少し鮮明ならという憾みはありますが、それでも素敵な作品。なお大師匠松田春翠もこの『放浪三昧』は好きで得意作品であった由。聴いてみたかったものです。

 どうです、この当たり障りの無い無難なレポートは。観劇ブログのお手本のようではないですか。決してアタシが、も少し稽古すべきだったとか書かないあたりがとても良い文章です。
|06/29| 活弁コメント(0)TB(0)
 更新出来ずに居ます。それでも前は「更新しなきゃ」と心のどこかで思っていたものですが、今ではそれも無くなってきてとても良い湯加減です。

 本日はメモ書きです。
 
 かねてよりアタクシは自分の職業を活動写真弁士、せめて活動弁士であると主張して参りました。つまるところ「活弁士なんて言葉は無ぇんだ!」って奴ですが。それはまぁ個々の主張や想いや事情もあるでしょうからいいのです。本音をいえば他人なんざどうでもいいのです。

 活弁士という言葉は現実に広まっておりまして、ネット上での誤字ではついに「活弁氏」なる言葉も見つけました。どんな人だ、活弁氏ってのは。

 ちょっと可笑しかったのでメモです。

 実はね、関西圏では声色掛け合い時代に別の呼称が弁士にはあったのだよ。これを知ってる人は何人いるかしらん。その内書きましょう。にしても活弁氏はやっぱ可笑しい、楽しい。筒井康隆はワープロで原稿を書くと誤変換で思いもよらない表現が出てきて良いと昔言ってましたが、そんな感じです。活弁士よりも活弁氏の方が楽しくていい。誤変換ついでに提案すれば弁士になりたい人の事を活弁志ってのはどう?駄目かいなァ。

 長いメモだね、しかし。
柳下美恵 無声映画リサイタル1

 出演でありました。会場は向島百花園御成座敷。メイン作品は柳下さんの音楽で観る『恋の睡蓮』ですので、アタシは露払いに『太郎さんの汽車』と『ラリーの美容師』をサラッと語りました。『ラリーの美容師』は大河内傳次郎研究の権威でいらっしゃる梶田章先生から頂いたもの。梶田先生から「貰って頂けますか?」と言われた時には光栄の余り普段猫背な背筋が伸びましたよ、ピンとね。

 この会場では無声映画ファンは少なく、どちらかと言えば演芸ファンがメインでして、つまり無声映画の弁士たる私は、こういう客層だと演る易くってもう。とても楽しい会となったのでした。

 私はちょいちょい衣装として着物を着るのですが、この百花園は真に着物がハマる場所でした。『恋の睡蓮』の上映中に縁側から場内を覗いておりましたが、自分が大家の若旦那かなにかになって夕涼みでもしているような気分になれるのです。ありゃあ気分がよろしい。あの会場でタキシードを着ていたらやっぱり変な人になってしまうのでしょう。つくづく「場」とはパフォーミングアーツにおいて重要な意味を持つものだと感じます。

 オマケ情報ですが、この日は柳下さんも着物でした。着物着て座布団に正座してキーボードを弾く柳下さんというのも中々貴重な図ではないかと思われます。

 この公演、上手くすればレギュラーで企画していただける様です。そうなると嬉しいのですが、はたしてどうなるか。映画は上映に最低限お金が掛かるからね。長く続けるのがムツカシイのです。でも小さな会場でコンスタントに仕事をこなしていくような活動がワリと好きなのです。プロジェクターが普及した今、無声映画もそういう活動を模索していく必要は有るかなとは思っておりますが、皆様いかが?落語のシェアを、ほんの少し分けて頂くだけで大分暮らしが楽になるのですけれど…。
|06/23| 活弁コメント(0)TB(0)
どってんかばなし

なる舞台を観てきたのでごじゃります。劇場は下落合のTACCS1179という所でした。この劇場は行ったことが無い劇場で、知らない劇場に行くたびに東京には幾つ劇場があるのだらうか?なぞと考えてしまうのです。そのどれもが稼動しているのですから驚きです。アタクシも以前、新宿のとある小劇場の手伝いをしていた事がありまして、予約・問い合わせってホントにしょっちゅう来るのです。何の実績も無い劇場なのにあれだったのですから名の通った劇場ではもっとなのでしょう。しかもその小劇場を借りて公演をしたとて劇団は基本的には儲からないのですからね。なぜこんなにも表現したい人が多いのでしょうか。お金を払ってでも舞台に立ちたい人が大勢居るのです。凄い事です。

 アタシはとりあえずオマンマが食いたい。

 あ、劇団名は21世紀FOXという劇団であります。主宰は肝付兼太さん、代表的な仕事は皆が知ってますがそれを書くのも何だかイヤラシイので書かない。劇団のHPを見たら特技が落語・浪曲なのだそうです。聞いてみたいなぁ、話芸人の一人としては。

 この公演に何故行く事になったかというと、昨年、某仕事で知り合った杉崎綾子さんがこちら所属だったのです。某仕事って隠すほどの事も無いのですが、言うほどの事でもさらに無いので言いませんし書きません。
 
 書かない事だらけですな。なら書かなきゃいいぢゃん、と思わなくもないのですが、でも書くのです。
|06/22| 舞台コメント(0)TB(0)
学士会館『ドクトル・マブゼ』

 恒例の神田学士会館公演でありまして、本日は『ドクトル・マブゼ』《第一部・大賭博士》の上映であります。データーは、一応書いておきましょう。


『ドクトル・マブゼ』第一部
1922年独作品
監督/フリッツ・ラング
脚色/テア・フォン・ハルボウ
出演/ルドルフ・クライン・ロッゲ
   ベルンハルト・ゲッケ
   ゲルトルード・ヴェルカー

説明/澤登翠
ギター/湯浅ジョウイチ
フルート/鈴木真紀子

でした。『ドクトル・マブゼ』は紀伊国屋からDVDも出ておりますので未見の方は観ていただきたい作品であります。何ていうのか、フリッツ・ラングは娯楽作家なのですな。朝日ホールでも何本か観ましたし『メトロポリス』やニーベルンゲン二部作は無声映画鑑賞会でも観ておりますが根本的にこの人の映画は楽しいのですね。犯罪、SF,ファンタジー、オリエンタル何でも御座れの作品作りは驚嘆に値するのではないかしらと思うのです。なので『メトロポリス』ラストにおける資本層と労働層の和解は当時の日本の評論家にすら失笑されてしまったりと、中々どうしてオチャメというか、その辺も娯楽作家らしさを見せていて高感度アップであります。

 現代の日本でラングファンが幸せだと思うのは先にも書きましたが紀伊国屋からクリティカル・エディションとして立て続けにハイクオリティなDVDが発売されている事が挙げられましょう。『メトロポリス』冒頭の金属の光沢の美しさときたら従来のビデオや16mmプリントで観てきた物とは雲泥の差があるのです。これを幸福と言わずして何を幸福と言うのか。若干お値段が高いのが困りものですが、値段相応の価値のあるDVDなんてやたらにあるモンぢゃ御座いません。今後も継続して頂きたいシリーズでありますので、私は財布をひっくり返してクリティカル・エディションを購入するのです。

 ん?前も書いた気がするね、この話。まあそれだけ貴重なシリーズだと言う事です。以前500円DVDが話題になったときにメーカーの思惑は別にしてDVDの適価の問題がクローズアップされた事があります。ユーザーは安くて良い物を望んでいる、しかし安すぎればメーカーは立ち行かない、安かろう悪かろうの製品が横行してえば市場そのものが将来的に冷え込んでしまう、といって各映画会社が出している正規版DVDは高すぎるのではないか、金儲けの事ばかりで映画を愛していないのではないか等々、様々な意見が出たのです。アタシも若干関わったのでそれなりに考えました。クラシック映画の場合、いわゆるパブリックドメイン、簡単に言ってしまえば権利切れの作品を取り扱うので適価が益々難しくなります。物凄い意見になるとパブリックドメインなんだから他人の商品だって好きに使っていいんだ、と言う理屈が出てきます。これね、実際あるらしいのよォ、某メーカーが市販の500円DVDをコピーして売っちゃったってパターンが。製品原価500円という脅威の安値でして、こんな事をすれば業界が冷え込んで潰れてしまうのは明らかなのです。その某メーカーは今も元気に活動中です。凄いやネ。

 余談でありましたね。とにかく適価というのは難しい問題を孕んでいるのです。で、そうした問題を侃侃諤諤していた時の着地点としてよく見られた意見が「価格破壊(500円)DVDが出てきてしまったのは仕方ない。しかしながら500円DVDは映像のクオリティも含め値段相応であるものが多い。ならば正規版メーカーは資料や映像特典などで魅力的な商品開発を目指すべきであろう」というものでした。

 パブリックドメインに正規版もへったくれも無いのですが、便宜的に使っている言葉です。

 さて、では市販DVDを見たときに、とくにパブリックドメインに属する作品で500円と4000円の値段差を納得させるDVDはどれくらいでているのでしょうか。残念ながら昔出したVHSマスターをそのまま転用、さもなくば一応デジタル処理をしました程度の商品が多いように思われます。勿論そうではない物もあります。『ローマの休日』は正規版(便宜的にね)を観た方がいいのです、絶対。ファンはそっちを買っていると思います。ただ、やはりそこまでクオリティの高いDVDはやっぱり少ないのが現状でしょう。その点紀伊国屋から出ているクリティカルエディションは高いけども納得できるクオリティだってことです。

 長々済みません。たったこれだけの事を話すのに随分

|06/21| 活弁コメント(0)TB(0)
河内音頭

 先ず日本酒を用意しましょう。銘柄は何でも良いです。ワンカップだろうが密造酒だろうが、純米大吟醸だろうが、混ぜ物たっぷりの物だろうが好きなら何でもよろしい。日本酒が駄目なら焼酎でもビールでもウヰスキーでもぶどう酒でも結構。夏のなので飲みやすい酒が良いでしょう。

 程よく飲んで程よく廻ってきたら河内音頭の準備です。菊水丸師匠でも幸枝若先生でも問題ありません。河内音頭が無ければ江州音頭でもオオケィです。東京音頭はオススメしません。とにかく河内音頭を聞きます。音量は周りの迷惑にならん様に気を付けましょう。

 後は好きなだけ飲んで頂ければ完成です。部屋を暗くしてグダグダ飲むなんざぁ最高です。冷房は入れてはなりませぬ。気付くと寝ていたという事になればもう完璧ですね。

 皆さんも駄目な人になりましょう。お待ちしています、あちら側で。
|06/20| もやもやコメント(0)TB(0)
 皆さんお元気ですか?書く内容を決めずに書き出すと大抵、こんにちは!とか、お元気?とかの挨拶から始まります。いい天気ですね。

 ここ数日『狂った一頁』に掛かっております。ああいう狂った映画はどこまでこちらが狂ってよいものやら判断が出来ずに困ります。映画が狂ってるのに弁士まで狂いきったらお客さんはいい迷惑でしょう。でも重いっ切り常識人でも面白かないでしょう。どうしたものか、さてさて。

 ドイツのジャーナリスト有志が口の閉じた牡蠣賞というのを設けているのだそうです。一年間でもっとも情報流通を妨げた人に贈る賞なのだとか。んで今年のプーチン大統領だそうです。彼らドイツジャーナリストによれば2000年以降、ロシアでは少なくとも14人のジャーナリストが不可解な理由で死亡したり殺害されたそうです。

 言論弾圧なぞというのは、どの国にでも在るもので、当然日本にもあるのですがロシアのソレと日本のものでは違うのでしょう。我々は日本に居てノンキにブログだのミクシィだのを楽しんでいる。これは大変な幸せなのかもしれません。といっても自由であることが全てにおいて良いことかと言えば、やっぱりそんな簡単ではないのですね。ロシアのジョークとユダヤのジョークの質の高さは有名ですし、その根底には抑圧が関係しているということはもはや解説を待つまでも無いでしょう。我が国においても抑圧下で非常に優れたジャーナリストが誕生しております。アタシがこよなく敬愛する方で、その名を宮武外骨といいまして明治から昭和にかけてのジャーナリストであります。彼の基本はパロディとアイロニーでして筆禍による投獄、発禁は度々という何とも逞しく頼もしい言論人なのです。外骨について話すと長くなるのですが、といってそれ程研究している訳でもないのでボロを出さぬうちに外骨からは離れます。図書館でもネットでもよろしい、調べてみると楽しいですぞ、宮武外骨。

 兎にも角にも言論弾圧の話。一概に悪くも言えないと申したのは、現在の日本は余りに言論が自由すぎるんではないかという事なのですね。というと、すぐに差別等の人を傷つける言葉の問題に繋がりがちなのですが、アタシが気にしてるのはそこではなくて、自由過ぎる言論は言葉の価値を下げるのではないかと思っているからです。誰が何を書いても話しても良いとなれば言葉を吟味しなくなるのは当然でしょう。言葉が自分の表現のためだけに存在している割に、相手に伝える為の道具である事が忘れられているのではないか、とまぁそんな具合に思うのです。

 冒頭でも書きましたように、何を書くか決めないで思いつくままに書き殴っておりまするゆえ、論理の飛躍と破綻が物凄く収集がつきませんが思索の流れをそのまま書いてるだけなので仕方が無いのです。ご容赦、ご勘弁。

 話を変えよう。

 先ほど8月に出演する会の打ち合わせに書生節の師でありあます福岡詩二先生の楽屋にお邪魔致しました。8月4日は詩二先生の門下、詩乃里さんのバイオリン演奏で弁士をさせていただく事になりました。詳細は左肩の公演案内に出しますが伝統大道芸名人会という催しです。どこが大道芸でどこが名人なのかは聞かないで頂きたい。でも来ていただけると嬉しい。

 詩二先生からは「昔は暗い顔してたけど、今は表情が明るくなった」と言って頂きました。とても感動すると共に後戻りできない自分をチト感じたのでした。…単に楽屋の電気が明るかっただけかも知れませんけどもね。

 すぐ皮肉るのは私の悪い癖です。先生とは電話では年に数度話しておりましたが、会うのは数年ぶりでして、その数年ぶりの再開で「明るくなった」といって頂いたのだから素直に喜んでおけばいいのです。わ~い。

 ほら、その、何ですよ、ワタクシも少しは成長してるって事ですよ。

 多分な。
|06/19| もやもやコメント(0)TB(0)
 アクセス落ち着いて来ましたね。よろしき事です。

 そしてアタクシの更新はズンズン追いつかなくなってきましたね。馬脚が現れてきた感じです。よろしき事です。

 昨日の東京新聞で紹介していただきました。朝刊です。三面です。よろしき事です。

 売れっ子でない芸人のオイラは新聞に載るというだけで舞い上がって知人友人親類縁者にメェルでお知らせしてしまった訳です。そうすると当然何の反応もくれない人が沢山居て悲しい思いをしたりなんかするのですが、んまぁ自業自得という奴でしょう。アタクシは自分の身に起きた悪いことは全部自業自得を考えるようにしています。それが実は一番腹が立たないような気がしてさ。

 しかしながらマスメディアに紹介していただく事の目的とは自分を知らない方に知っていただく事が主たる目的なのです。アタシの場合。なのに新聞に載るからといって出来る事は知り合いに宣伝する事のみ。この矛盾をどうしようか…。新たな出会いに繋がるといいなあ、ふんとに。どうぞお気軽に声をおかけ下さいませ。仕事はもっとお気軽に下さいませ。芸人は金かプライド、どちらかが満足すれば働きます。ふんとです。

 今月来月再来月と仕事はボツボツ決まってます。よろしき事です。

 とりあえずクロアチア土産が欲しい方は今の内に友達になっておくのが吉でアリンス。よろしき…もういいやネ。
|06/17| もやもやコメント(0)TB(0)
ヤナシタミエの映画時間inいちかわ

 なのでありましたよ。今回の上映作品は『アッシャー家の末裔』といいまして1928年フランス映画であります。監督はジャン・エプスタン、原作はエドガー・アラン・ポーという作品データだけでも何やらもう、という作品であります。この作品は以前の活動倶楽部でも同じく柳下美恵さんの演奏で上映されたのですが、今回はさらにしゃあみんさんのチェロ(いやセロといいましょうか)と佐藤みづほさんの歌が加わっての上演となりました。補足で言うとこの会は二部構成で一部が三人のミュージシャンによる音楽会、第二部が映画と音楽による上映会でした。さらにさらに補足すると進行役はアタクシ、片岡一郎が僭越ながら務めさせて頂いた次第。

 こちら大倉山の上映会は昨年もお邪魔させて頂いておりましたが、何と言ってもこの場所は雰囲気がとてもよろしい。サイレント映画を観て、場内が明るくなった後にも周囲の空間が重厚なので夢が覚めないのですな。映画の続きに自分が居るような感覚になる。もっと言えば上映中にふと映画から目を離して辺りを見ると映画と建物が渾然としていてサイレント映画の中に絡めとたれてゆくような錯覚を覚えるのです。

 映画に限らず娯楽というのは飲酒やなにかも含めトリップの快感を求める部分があります。現実からの離脱とは甘美な誘惑なのです。そうした時にこの場所での『アッシャー家の末裔』は持って来いのプログラムと言えましょう。この映画は過去数度観ておりますが、今回初めて怖いと思いました。これまでにもある種の感動は感じた映画でしたが無声映画で怖いと思ったのは初めてかもしれませぬ。痛そうで怖いは除きますけど。

 痛い無声映画の代表作は『アンダルシアの犬』が挙げられますね。あのシーンは未だに身構えてしまうのです、ワタクシ。しかしマツダ映画社に保存されている『少年野口英世』も中々に痛い映画でした。野口英世少年は赤ん坊の頃の事故で片手の指が引っ付いちゃってるんですね。だけれども非常に優秀で勉強熱心な彼は、指を個々に動かせるようになる為の手術を受けるのです。この時、映画の中の野口英世少年は「麻酔をかけないで下さい。僕本を読んでるから平気です」とか言って手術を受けるんです。
 
 痛てぇよ馬鹿野郎。

 ちったあ観てる方の負担も考えて映画を造って頂きたいものです。

 え~まあ、とにかくサイレント映画の上映には環境も大事よ、って話でした。何のこっちゃ。
|06/14| 舞台コメント(0)TB(0)
 昨日からアクセスがグリグリ伸びています。なんかもうブロガーで感じですか、僕。ほらなんだ、アフェリエイトだっけ?やってみっか、アレ。嘘だけど。

 しかしまあ、やっぱり興味の対象はそこだったか、と言う感じです。険呑々々…。

 解説というか言い訳しますと、昨日の文章は徹夜で飲んで帰宅後に書いたものでして、五時じゃねえや誤字脱字が甚だしく、夕方にちょっとだけ修正してあります。まだあるかもしれませんがね。ま、修正したと言っても内容には手をつけてません。朝イチ版に思わず書いてしまった裏話があって、それを削ったりといった事はありません。ネンノタメ。

 それにしても幾ら夜通し飲んで歌った直後とはいえ、ミスの多さは目を覆いたく成る程でした。誰の校正も意見も入らずに即時発信されてしまうブログは、やはりある程度のリスクを伴うものだと言うことです。知性派・良識派を気取っていても、何げない文章で「コイツ馬鹿だ」って事になってしまうのです。特に芸人、芸能人、文化人は最低限の注意が必要でありましょう。軽い気持ちで書いたことで仕事の全てを失いかねないのです。

 最近は一億総ブログ時代などという言葉も出てきていますが、それだけ皆が自分の事を語りたいのでしょう。学生時代には原稿用紙一枚書くのが苦痛だったけれど、ブログなら幾らでも書けるなんという方も居るそうです。しかしやっぱりブログは自己を不必要に露出する危険性を孕んでおりますから、思わぬ危険や批判に曝される可能性をも考えておかねばならない、って事は常識でありながら忘れられている部分でありましょう。

 解った振りして書いたことが見当違い。正しいと思って書いたことが世間の常識から外れている。大いにありえる事です。

 アタシなぞは真面目に見えて、昔から問題発言の多い奴ですから、大いに気を付けなければならんのです。今迄だって何回発言ミスで師匠に怒られたか知れません。そんなパーソナリティを自覚しているのでアタクシは興奮状態と酩酊状態ではパソコンに向かわないことに決めているのです。でないと何書くか分らんのです。それこそ険呑ですよ。

 そもそもね、芸人は芸で語れば良いの、そうでしょ?
|06/13| もやもやコメント(0)TB(0)
 更新遅くなって済みません。

 と、色々なブログに書いてあります。んが、誰に謝っているのか皆目検討が付かないのであります。読んでくれる人かいな?でもあんまりいないよね、そんな人。売れてる芸能人とかなら別ですが。それにしたって謝る必要はあるまいと思うのです。でも謝っときましょう、更新遅くなりました。済みません。

 なぜ謝るのかと言えば、例の件についての情報を知りたい方も多くいらっしゃるのではないかと思いまして…。例の件とはなんぞやという方はスルーして下さい。とか言うと殆どスルーだったりとかしてな、いや~ん。

 でも更新もしてないのにアクセスが増えてるところを見るとそうした目的の方が多いのだと思います。だから書きます。いいかい?

 先ず最初に断っておきますが、例の件とアタイは無関係です。部外者です。蚊帳の外です。門外漢です。ただこの業界、つまり弁士界にはアタクシは比較的通じておりますので一日にして三者から話を聴く事が出来たのです。そんな立場はアタシ位なもんでしょう。少なくも何も知らんと勝手な憶測でガァガァ騒いでる奴らとは違うのです。それだけは明言しておきます。これから書くことはアタシの見た事実です。ただそれが真実とは限りません。真実なんというものは立場において如何様にでも変化するものだとおぼしめせ。

 さて、話を聴いた三者をはっきりさせましょう。マツダ映画社、坂本頼光、山崎バニラです。

 本件に関して言えば被害者とは坂本頼光氏であり学生諸氏の事を言うのです(←と考えるのは片岡の独断です)。なぜなれば彼らは完全に巻き込まれた形であるからです。他の方々にはそれぞれの主張もありますので今の段階では被害、加害の関係に押し込める事は適当では無いのです。しかしながら賢明なる諸君なれば理解できようかと思いますが、被害者をはっきりさせたという作業は別の意味を含みます。ここは解る人だけ解れば良いので細かく書きません。

 なぜ書かぬのか。一言で言えば馬鹿臭いからです。澤登翠の一番弟子たる片岡様が語るほどのこっちゃ無いのです。あんまりにも馬鹿臭くて馬鹿が盆踊りを踊りそうです。

 あのね、大抵の揉め事の原因とは何か教えようか。それは相手をおもんばかる気持ちの欠如なのです。「自分は正しい」とか「自分は間違ってない」とか信じきってしまう事なのです。自己にとって正しくとも相手にとっては正しくない事なんぞ世の中に幾らでもあります。それらの差異を補正する為にルールが社会には存在してるのです。ということはお互いの正しいを譲らなくなった時に揉め事が生じるのです。逆に言えば揉めるという事はルールで対処しきれなくなった時の最後の解決方法でもあるのです。それは個人間では喧嘩と呼び、国家間では戦争と呼びます。解る?ここまで。

 今回の事もそういう事です。こんなになる前に回避する方法は幾らでもありました。でも、誰もその方法を採らなかった、そういう事です。そして、たとえ回避する方法に気付いていても、その方法を行使出来ない立場にあったのが坂本頼光であり学生さん達なのです。被害者とはそうした意味です。勿論、アタシの中では何処が良くない行動をしたかに関しては見解がありますが、それを発表したとてメリットはゼロなので書きません。芸人が宗教や政治、差別等の問題に知識も持たないで口幅ったくなったって得はありません。それをやるほど馬鹿じゃない。

 えぇとですな。今回の事とは全く状況は違うのですが、数年前に弁士の世界で今回の件と比して劣らぬ位の馬鹿臭い事件がありました。その時も関わった誰もが傷つきました。誰も得をしなかったと言ってもいい。その事件だって分解してみれば「自分は間違ってない」と何人もの人が思って相手の気持ちを考えなかった為に起こったといえるのです。何度こんな事を繰り返せば気が済むのか。全く理解に苦しむのです。その度毎に活弁のイメェジが悪くなるのに。「自分は正しい」を繰り返せば繰り返す程に色々な物が遠ざかって行くのに。なぜその程度の事が解らないのか。

 嗚呼、何と言うことでしょう。業界内からはヒンシュク多数、悪評紛々たる拙ブログであまりにも中庸、中道で面白くない事を書いてしまいました。まるで道徳の教科書のようです。でも仕方ありますまい。当たり前の事が言われなさ過ぎる。

 多分、これを読んでいるほとんどの方よりは事情に通じてますよ、アタシ。部外者ですが、多数からの話を聞けた為に当事者よりも知ってるかもしれない。でも詳細は書きません。繰り返すようですが、それほど馬鹿ぢゃない。どうしても知りたい方はビールとか日本酒で手を打ちましょう。ホントかよ?

 んまあ、つまりアレだ。何事によらず、真実を見極めたかったら複数の情報に当たるこった。
|06/12| もやもやコメント(0)TB(0)
ドイツ映画祭2007

 再三言っておりますが、アタクシは映画をあまり観ません。弁士なのに観ません。お恥ずかしい限りであります。ただ先月はちょっとだけ多めに観ました。仕事が無かったからやはり弁士たるもの映画を観なければイケナイと思ったからです。ん~先月は30本位かな「鬼太郎」も観たし、ようやく「セカチュー」も観ました。チャップリンも初期短編をシコシコと観ました。

 んでもって今月は舞台中心になりそうなのですが、これだけは稼業柄観ておかざぁなるめぇとおっとり刀で馳せ参じました有楽町朝日ホールでありますよ。ドイツ映画祭2007・今年もルビッチということで『白黒姉妹』と『花嫁人形』の二本立て。ピアノとヴァイオリンの生演奏つきでの上映で御座います。にしても毎度朝日ホールの上映会に行くと思うのですが、どっからこんなにお客さんが来るんでしょう。不思議でなりませぬ。弁士が嫌いだから我々の会には来ないというのならそれでも良いのだけれど、柳下さんの会ならどうだって話ですよ。フィルムセンターだってここまで入らねぇやね。皆さん、どちらにお住まいですか?アタシと違う星なんでしょか。で、朝日ホールの時だけ時空が歪んで会えるという…。ンな訳ないけども。

 とにかくルビッチの特集です。作品データは他の人がブログに書いてますのでそっちを見て下さい。間違ってないと思うよ。どうせほとんどの人がコピペだし。で、そのルビッチですが映画の神様と称えられております。神様なので蓮見重彦先生も来るわけです。ニコニコしながら列に並んでました。

 周りのお客さんが
「蓮見重彦じゃない?」
「でもわざわざ並ばないでしょ」
 と話してたのが印象深く残っております。

 ルビッチはルビッチュとも書きますルービッチュもありました、ルビッチェってのもたしかありまして、外国人の固有名詞の表記の難しさを感じます。でもどれも同一人物なのです。呼び方というのは、その人や物を識別するための道具ですから何でも良いと言えば良いのですが、良くないと言えば誠に良くない。識別の道具であるゆえにアイデンティティにまで関わってくるからですね。
 
 私が高校時代に好んで呼んだH・P・ラヴクラフトの創作した世界観(というか邪神伝説)の中心たるCthulhuはクトゥルーだとかクトゥルフだとかク・リトル・リトルだとかしっちゃかめっちゃかです。そうした混乱が良いか悪いかなんてな事はどうでも良いのですが、ただ呼び方が混乱したほうが存在が曖昧となり神秘性が出てくるのは間違いなさそうです。だからCthulhuもLubitschも神様なのでしょう。

 逆に余りにも明確なものは分かり易い為に親しみがもてる反面、神秘性はゼロです。例を挙げるならナントカ王子とかね。そんな感じ。

 ぜんぜんドイツ映画祭の話では無くなってしまいました。いつもの事とは言え、どうなんざましょ、こうした脱線癖。いかんねぇ、実に。何か実際は映画観に行って無いみたいです。でも行ったんだよォ、本当だよォ。証拠に映画の感想言おうか。

 面白かったよ。

|06/11| 舞台コメント(0)TB(0)
春蚕

 ちょいと長いお休みを経て久しぶりの弁士のお仕事でした。ここ最近の継続的な活動として中国映画をさせて頂いている阿佐ヶ谷のあるぽらん’89での公演です。何が辛いって活動写真弁士が弁士の仕事を出来ないのはツライのです。己のアイデンティティに係わりますからな。いや、その意味でこの一月の長さときたらありませんで、早く弁士をしたいと念じながら準備をあまりしないという怠惰なる日々を過ごしていたのでした。人間適度に忙しくないと駄目になります。いや、人間は知らんけどオイラは駄目になる。なのでもっと仕事を下さい。先日御一緒させて頂き、今度のモトヴン映画祭でも共演させて頂くオーストリアの無声映画伴奏者ゲルハルト・グルーバーは年内に100ステ位は決まっているそうです。ああ、そんな馬車馬のように仕事をこなしてみたい。

 文句を言っても始まりません。仕事が少ない故に中国映画の様な集客的にも弱い、自分の興味のある分野へのチャレンジが出来るのです。芸人はお金とプライドで動きます。中国映画はプライドの部分を満たす為にやっている仕事といっても過言ではありません。大事にしているシリーズであります。ここで中国の無声映画を9本も語らせて頂いているのです。有難い事であります。

 本日はニ部構成、一部が弁士以外のパフォーマーによるチャレンジ弁士コーナー。二部がアタクシ、片岡一郎の説明で『春蚕』でした。

 チャレンジ弁士コーナーで上映した作品は詳細不明の西部劇風作品。どの位詳細不明かというとタイトル不明、主演不明、監督不明、制作国不明、もちろん共演者もスタッフも不明、つまり全部不明の作品で、登場人物の名前も人間関係も何にも解りません。そんな何も解らないフィルムを約三分、私が所蔵しておりまして、これを語って貰おうという趣向。出演弁士は声優の狛乃ハルコさん、池々大造さん、役者の志賀優寛さんのお三方でした。三人とも初めての弁士体験だった訳ですが、語りが三者三様で映像・音楽共に同じなのに、作品としては全く違うものに仕上がっておりまして非常に楽しいステージになったのです。

 弁士が違えば映画が違う。この事は純粋な映画ファンを自認する片には許し難い事であるようです。映画というのは複製芸術ですら見る場所によって変化が起こってはならないのでしょう。気持ちは解るのですが、殊更に弁士というだけで嫌悪感を出されたりケナされたりすると、そりゃこっちだって面白かろう筈がないのです。つい喧嘩腰で反論を考えたりしますが、冷静になれば演者によって、場所によって内容が変化するのはパフォーマンスの世界では当然至極の事であるので反論なんぞする必要もないのです。

 という様な事を何度書き、何度言ってきたでしょう。でもしつこい位に言わないと他人は認識してくれませんのでしょうがないのです。又かと思われた方がいたらスマンね。

 御託が多くてイケマセン。そんな弁解・解説が必要ない程、この日の三人の弁士は素敵でした。彼らに比べればアタシの弁士初仕事など、全くもって児戯に等しい内容でした。こうした人達がもっと手軽に弁士を出来る状況をつくらねばならんなぁと思う次第。プロだけしか弁士を体験できないのは芸能としては不健康な状態と言えると思います。健康第一で行きましょうよ。

 弁士をしてくれた狛乃ハルコさんはブログを持ってますのでご紹介しておきましょう。他のお二人は無い様なので出来たらいずれご紹介ということで。
狛乃ハルコのブログ* こまっしゃくれべいべー http://ameblo.jp/harucomano
 こまっしゃくれているのだそうです。今回の三人はどなたも面白い人でした。HPやブログはありませんが志賀優寛さんは7月26日に阿佐ヶ谷のヴィオロンで一人芝居をされるそうです。落語をベースにした芝居との事、興味のある方は行ってみて下さい。

 
|06/10| 活弁コメント(0)TB(0)
ヴェニスの商人?

 志らく師匠の劇団、下町ダニーローズ第七回本公演です。アタクシは『リカちゃんと怪獣』『あ・うん(初演)』に参加させて頂きました。なので知っている方も多く出ていますので感想どうこうってのはムツカシイのです。とか言いながら、何かこう楽しんで観ちゃいましたよ。

 この劇団の凄いトコは一回々々確実に進化してる事だと思うのです。毎回、確実に舞台というか演劇としての完成度が上がってきている。これはもっと認識されて良いことかもしれません。志らく師匠のブログを拝見すると物凄い舞台に入れ込んでいて鬼気迫っており、何やら怖い位なのです。そのブログ中で「今回の舞台は良いものになる」といった発言を度々されております。しかも志らく師匠は落語家ですから芝居の公演と芝居の公演の間には沢山の高座があり、ファンはそれも見る訳で、そうすると劇団としての連続性が見え辛くなってしまう感があるのです。けれど、よくよく考えてみると一回毎に確実に成長していく劇団なんてそう滅多にあるものでは無いのです。学生時代、少しは演劇に関わってましたので、それだけはハッキリ言えます。だから演劇ファンの方は観ておいた方が良い劇団かもしれません。

 結局感想を書いてます。それも当たり障りのない事を。でも嘘を付いている訳では無いのです。だからまあ、ねぇ。

 演劇というのは楽しいのですが大変な事も多くあります。アタクシのような売れない芸人は舞台にかかわると単純に生活が立ち行かなくなってしまうのです。演劇をやっていた時分はバイトした金をつぎ込んでいましたが今となってはそれも難しいので中々演劇にはかかわれません。そういや藤田まことさんの舞台にスタッフで一月入った時は楽しかったな。舞台には独自の魅力があります。そしてそれは容易に抜け出せない魔力を持っているのです。だから世の中には役者さんはビックリするような数が居ます。私の知り合いにも役者さんは多いですし、最近また増えてます。でも役者で食っていくのは大変です。人口比率を考えれば弁士より食えない職業でしょう、役者、ダンサー、ミュージシャン。

 東京はつくづく人の夢を喰らって動いてる街だと思います。

 すぐに話が逸れます。下町ダニーローズの話です。次回公演は12月だそうです。ゴーリキーの『どん底』を志らく師匠流にアレンジしたものだそうです。『どん底』かぁ、昔読んだな。うん。
|06/07| 舞台コメント(0)TB(0)
 僕は日本大学の芸術学部というところに通ってました。通称日芸です。小さい時から「変わった子」扱いを友達や先生にされてきた僕は、そのニチゲーに入るのを楽しみにしていたのです。何故かと言えば奇人変人の巣窟と評判のにちげーなら、僕如きは個性のない、普通の青年になれるに違いないと思ったからです。「片岡君って個性無いよね」みたいに言われる事を期待していたのです。

 結果はどうなったか?

 「片岡君って変わってるよね」とにちげいでも言われたのでした。ちゃんちゃん。

 それで今日なのですが、今日は我が師匠の澤登翠が日本大学芸術学部における日本映画史の特別講師として授業内で講演をする事になったのでお供をしてまいりました。

 講演をすることになった、とは言ってますが、この話を事実上まとめたのは僕なのです。日本映画史の田島先生はウチの師匠に講演を頼みたい気持ちは前々からおありだったのですが、謝礼が充分に出来ないというので二の足を踏んでらしたそうです。僕は田島先生とは仲良くさせて頂いておりますし、日頃のご恩返しにと金銭面も含め橋渡し役をさせて頂いたという次第。

 さて講義ですが、これが頗るつきに面白いものでした。というのも最初の15分程度は映画史の初歩的な内容であったものが、興が乗ってくるにつれチャンバラ映画における肉体の躍動の話になったり、西洋と東洋の建築様式の違いの話になったりで澤登ワールドが全開となってゆき、学生は時折煙に巻かれたみたいになってました。しかしながら学生に向けて話すからといって、全て学生が理解できるように話す必要もないのですね。むしろそれまで興味も知識も無かった無声映画に極めて大きな広がりがあることが理解できる分だけ、よく解らない話というものの効果は期待できるのではないかと思います。

 学生の皆さんの反応も面白いものでした。『新版大岡政談』の丹下左膳(大河内傳次郎)の写真を見て「ビジュアル系だね」という感想は我々には出ないものです。若き日の阪妻の映像を見て、まだ10代の女子学生が「格好良い」と言葉を漏らしていたのも印象的でした。

 こうした授業で学生みんなが無声映画と活弁に興味を持ってくれれば嬉しいのですが、そんな事はあり得ません。でも100人学生がいれば1人や2人は妙に食い付いてくる人が居るものです。それが大事なのです。

 ちなみにギャラはホントに安いのです。別に母校に文句を言ってるのでは断じてありません。そのギャラでも意気に感じ90分間たっぷりと語り『血煙高田馬場』『豪傑児雷也』等の実演も本息でやってくれる師匠がとても有難いと思った次第。
|06/06| 活動コメント(0)TB(0)
 なんですって。ニュースで話題になってますな。んで、盗んだ分は質屋で換金してたってんですから、んまぁ、したたかっちゃあしたたかですわね。盗んだ物は鍋セットやら体重計だそうで、そんなものがハタチ付近の少年から次々と持ち込まれる質屋ってのも物凄い光景ですな。

 それだけ盗める、盗まれると言う事は物が溢れているということなのでしょう。貧乏な我が家でも要らない物が沢山ありますもの。そもそも要らないということであれば、このブログなるものだって…、また始まった。

 でも本質的にはパソコン要らねぇよなぁ、携帯だって。弁士という職業は、さて…要るかな?要らないでしょうな。不要な物がゆとりであるという事もあるから何とも言えんけどね。

 記事の引用でゴワス。

6月4日21時44分配信 毎日新聞


 量販店の「ドン・キホーテ」で万引きを繰り返したとして、神奈川県警加賀町署は4日、川崎市川崎区台町、佐藤亮容疑者(20)ら18歳と19歳の少年を含む、いずれも川崎市内の無職の男4人を窃盗容疑で逮捕したと発表した。同署は、4人が昨年1月から今年3月末までに、横浜市、川崎市、同県相模原市内の3店で電化製品など約100件の万引きをし、被害額は約2000万円に上るとみて捜査している。
 調べでは、佐藤容疑者と19歳の少年は2月12日午前6時20分ごろ、川崎市幸区神明町1の「ドン・キホーテパウかわさき店」で鍋セットや体重計など(計4万9400円相当)を盗んだ疑い。20歳=事件当時19歳=の男と18歳の少年もそれぞれ同月、同店などで掃除機を盗むなどした疑い。19歳と18歳の少年2人は家裁送致され、当時19歳だった男は窃盗罪で起訴されている。
 4人は、2~3人で万引きを繰り返し、盗んだ商品を質店で換金していたという。調べに対し、「遊びに使った。商品が山積みされていて盗みやすく、警備が手薄になる深夜から明け方を狙った」と容疑を認めている。



 「ドン・キ」で盗んだから万引きなのです。鈍器で盗んだら強盗になります。ご注意下さい。
|06/05| もやもやコメント(0)TB(0)
 おはやうございます。片岡一郎です。名乗るほどの者ぢゃ御座いませんがね。礼儀として。昨日の文章を読み返すと丸っきり気狂いの文章です。愉快な程支離滅裂で御座んした。でもいいぢゃありませんか。アタシにとって書くことが最高の気休めなのです。かの夏目漱石先生も神経症を患っている時、気休めに小説を書いたのだそうです。うふっ漱石ときたね。

 最近、声優業の勉強をしておりますが、他所の仕事をすると弁士の仕事がしたくて仕方なくなります。つまりナンですな、アタシはカツベンがどうやらとても好きらしいのです。弁士と声優に優劣を付けるつもりは毛頭ありませんですよ。関係者の皆様。ただ、オイラは弁士だってだけです。先月は弁士のお仕事が無かったもんで、なおさら禁断症状が出ているのでせう。こんなに自分の職業が好きだとは思わんだった。

 もしもね、声優の方で「今のままでいいのかな」などとお考えの方がいらしたら弁士をおやんなさい。そのとき声優がホントに好きならば、やっぱり声優っていいな、と思えるに違いありませんです、ウム。
 
  
 そう思えなかったならば?

 知りません。そんな事は。
 
 声優に限った話ではないのです、きっと。ただ自分の経験から話しているだけなので、この感覚が魚屋や焼き芋屋に通じるかどうかは責任が持てません。でも多分同じ事だと思います。

 別の事をするのは、だから良いことなのでしょう。自分の仕事が好きかを確認する機会になる。そしてそれは本業は勿論、再び別の仕事をする時の活力にもなるのだと思います。

 今日は良いこと言ってるね俺様。俺様とワタルはトモダチだからな。

 そんな訳でしてアタクシの次の弁士としての出番は10日です。阿佐ヶ谷のあるぽらんで、ここ数年のライフワークである中国の無声映画を演ります。『春蚕』です。この日を誰よりも楽しみにしているのが他ならぬアタシなのです。嗚呼、早く俺に弁士をさせろぃ。

 とか言っても台本がまだ出来てないのですけれどもね。

 でもね、声優の人、特に若い人に無声映画の名作を語って貰って感想を聞いてみたいとは本気で思います。『カリガリ博士』『折鶴お千』『散り行く花』『忠次旅日記』『メトロポリス』『生れてはみたけれど』『戦艦ポチョムキン』『小玩意』『君と別れて』『さらば青春』等々に触れた後、どう思うのか。

 それは知りたい。やらせてみるかね。

 興味がありませんか。そうですか。ぢゃあ俺が演るからいいや。

 又しても内面がダダ漏れていますね。締めなおさないと。キュッとね。
|06/04| もやもやコメント(0)TB(0)
 今日は三日分の更新をしました。

 何の為に?

 解りゃあしません。でもまあ、一応ね。

 無理して書いた文章です。内容がではなく、文体が無理しています。書いていて疲れます。文体のトレースは好きな人の物に限ります。でも、これも何かの練習になるかもしれないのです。なので書いて見る訳です。

 何も考えなくても言葉は溢れてきます。それを自分の方法論で表現にするのは容易いのです。なのに、一度他人の方法論でやれとなると全く駄目。そういう時、アタシは理が勝っちまうのです。自覚はしてます。でも、その理を抑えるのも違うんではないかと思ったりもするのです。とりあえず出てくるものは理だろうが屁だろうが出してみるつもりでこの一年くらいは居ます。なので色々躓きます。面白い位にね。

 奈々福さんの襲名披露公演に行きました。『蹴りたい背中』を読みました。せめてこの二つについては書きたいにゃあ。なぜにゃあか、つまりこれが出たままなのです。それから『金玉娘』を観た事も書いておこう。おいおい書くでしょう。書かないかもしれないけれど。

 心が動くというのは難しいのです。心を動かす事を求められたトタンに心が萎縮しますやね。でも我々は無理してでも動かさなかればナラン時があります。そこが難しいのです。きっと。

 また違う文体で書いてみよう。どこからにしようか。て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り。

 髪が切りたい。
|06/03| もやもやコメント(0)TB(0)
 金玉娘

 『金玉娘』という舞台を見て参りました。劇場はSpace早稲田、流山児★事務所の若手公演です。出演にアタシの大学時代の後輩で石井澄というのがいるのです。『金玉娘』とはまた見事にお下品なタイトルで素敵なのですが、後輩の石井という奴がこれまた下品な奴でして大学卒業前後から小劇場の舞台に立つようになって、その頃から下品な役ばかり演ってました。その後演劇の学校に入って勉強したのですが、学校の卒業公演では結局下品な役でした。そして今の事務所に入る訳です。その間色々あったと思いますが知らんので書けません。とにかくアタシの中で石井澄といえば下品な女であるとの構図が出来ているのです。では下品が駄目かと言えば全くそんな事はないのです。下品結構、大結構。事実、石井澄の下品さは昔小劇場で自主公演を打っていた時と比べると相応に変化をしており味のある下品になっているのが解ります。観客を納得させる事が出来れば品の上下なぞ、さしたる問題ではないのです。そんな思いもあるので石井澄にはもっともっと下品道を突き進んで頂いて、立派な下品女優として故郷に錦を飾って欲しいものだと念願しているのです。それから舞台の内容についてですが金玉娘とは見世物の芸人です。読んで字の如く金玉のある娘を軸とした、でも登場人物の誰もが主役であるような世界が、この『金玉娘』の演出です。群像劇っちゅうヤツですな。だから金玉娘だろうが毛だらけ娘だろうがモーニング娘。だろうが何だって良いっちゃ良いのかも知れませんが、でもやっぱり金玉娘なのでしょう。なぜ金玉なのかは誰か分析したりしてないのかしら?してたら読んでみたいな。とにかく金玉娘は見世物の芸人であり、見世物とは今日フリークスショーという名称の方が通りが良いのかも知れませんが、この見世物というのが凄いのです。今でも新宿花園神社で酉の市の時期に見世物が出ますが、見世物には我々が通常考えるような芸=技術は殆どありません。見世物の眼目は「あんな人がいる」であり「あんな事してる」であるからです。そうした芸以前の表現は極めてしたたかで我々板の上の芸人が束になっても敵わないような凄みがあるのです。彼らの芸は生きる事と直結しているのですから、そりゃあ凄いのです。だからこれを役者が演じるというのは並大抵の事ではないのです。なので「見世物じゃないんだから」という表現を芸能関係者が口にするのを聞くと、私はえもいわれぬ不快感を持つのです。芸人や役者が見世物程にしたたかになれば大したものです。それに見世物は畸形児や片輪者、あるいは共同体からドロップアウトした人達の生活の大切な手段でもありました。社会学からみても見世物は極めて豊潤な奥行きを見せる世界なのです。未見の方は見ておくべきでありましょう。なにしろ見世物なのですから見なければ始まらないのです。いつの間にか『金玉娘』の話題が見世物の話題になってしまいましたが、それもまた良し。おまけに改行を一切しないで書いたこの文章は酷く読み辛いに違いないのです。でも文章なんて所詮文字の集合体なのだからこの方が健全な形と言えなくもないのです。
|06/01| 舞台コメント(0)TB(0)