
新文芸座における魅惑のシネマクラシックスVol.8のうち『裁かるゝジャンヌ』(1928)の上映でした。全ての上映に柳下美恵さんのキーボード演奏、15時15分からの会のみ弁士・澤登翠/キーボード演奏・柳下美恵の上映でした。
映画史を語る上で決して外せない作品というのがあります。それは面白いとか、ヒットしたとか、芸術性に優れているとかいったチンケな理由ではなく(そのチンケが大事なのですが、ともかく)、そうした特別な作品たちは何かを築いてしまった作品なのです。『イントレランス』だったり『戦艦ポチョムキン』だったり『鉄路の白薔薇』だったり『カリガリ博士』だったりです。なぜ悉くが西洋の作品かといえば(説明する必要があるのかね…)西洋の映画は世界中に発信されていたからに他なりません。同程度の作品は別の国にもあるでしょうし、それらの中には日本人がついぞ観た事のない作品が含まれているに違いないのです。ですが、発信されなかった作品は何かを築く事は出来ません。そうした意味において前述の作品群は幸運だったといえるかも知れません。
くどくどは申しますまい。この日上映された『裁かるゝジャンヌ』もまた、何かを築いてしまった映画なのです。
この作品は極めてテクニカルかつトリッキーな作品です。無声映画末期の技術とセンスの粋を尽くした作品なのです。しかしながら同時に極めて単純な作品でもあります。全篇クローズアップによる撮影はハリウッド式動的ダイナミズムとは異なる人間の表情のダイナミズムです。この作品を観て、我々は改めて映画とは映像なのだと思い知らされるのです。
映画が映像なのは当たり前ですか?そんな事はないのです。本当の意味で映像が語る映画などそう滅多にあるものではないのです。
そんな『裁かるゝジャンヌ』に弁士と演奏が付きました。もちろん当時だって日本では付いていたのです。でも、きっとアンチ弁士の方はこの作品に語りが付けられるのを嫌がるでしょう。なぜなれば弁士の私をして弁士がないほうが良いと思っている作品なのです。もっと言うと師匠・澤登翠も本作は「サイレントで観るのも好き」と言っている作品なのです。
だからこそ楽しみでした。万難を排してこの日は師匠に付いていたのです。だって気になるぢゃないですか、師匠がどんな風に演るか。語らない美学をどういう風に見せてくるか。これは弁士として聞き逃せない公演だったのです。私にとっては。
結果は行って良かったと心底思いました。思ったので詳しくは書かないことにします。そういう時だってあるさ。いつか自分も演ってみたい作品です。もっとも「ぢゃお前ジャンヌ演れ!」と言われたら逃げますですが。