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魅惑のシネマ・クラシックスVol.8

新文芸座における魅惑のシネマクラシックスVol.8のうち『裁かるゝジャンヌ』(1928)の上映でした。全ての上映に柳下美恵さんのキーボード演奏、15時15分からの会のみ弁士・澤登翠/キーボード演奏・柳下美恵の上映でした。

 映画史を語る上で決して外せない作品というのがあります。それは面白いとか、ヒットしたとか、芸術性に優れているとかいったチンケな理由ではなく(そのチンケが大事なのですが、ともかく)、そうした特別な作品たちは何かを築いてしまった作品なのです。『イントレランス』だったり『戦艦ポチョムキン』だったり『鉄路の白薔薇』だったり『カリガリ博士』だったりです。なぜ悉くが西洋の作品かといえば(説明する必要があるのかね…)西洋の映画は世界中に発信されていたからに他なりません。同程度の作品は別の国にもあるでしょうし、それらの中には日本人がついぞ観た事のない作品が含まれているに違いないのです。ですが、発信されなかった作品は何かを築く事は出来ません。そうした意味において前述の作品群は幸運だったといえるかも知れません。

 くどくどは申しますまい。この日上映された『裁かるゝジャンヌ』もまた、何かを築いてしまった映画なのです。

 この作品は極めてテクニカルかつトリッキーな作品です。無声映画末期の技術とセンスの粋を尽くした作品なのです。しかしながら同時に極めて単純な作品でもあります。全篇クローズアップによる撮影はハリウッド式動的ダイナミズムとは異なる人間の表情のダイナミズムです。この作品を観て、我々は改めて映画とは映像なのだと思い知らされるのです。

 映画が映像なのは当たり前ですか?そんな事はないのです。本当の意味で映像が語る映画などそう滅多にあるものではないのです。

 そんな『裁かるゝジャンヌ』に弁士と演奏が付きました。もちろん当時だって日本では付いていたのです。でも、きっとアンチ弁士の方はこの作品に語りが付けられるのを嫌がるでしょう。なぜなれば弁士の私をして弁士がないほうが良いと思っている作品なのです。もっと言うと師匠・澤登翠も本作は「サイレントで観るのも好き」と言っている作品なのです。

 だからこそ楽しみでした。万難を排してこの日は師匠に付いていたのです。だって気になるぢゃないですか、師匠がどんな風に演るか。語らない美学をどういう風に見せてくるか。これは弁士として聞き逃せない公演だったのです。私にとっては。

 結果は行って良かったと心底思いました。思ったので詳しくは書かないことにします。そういう時だってあるさ。いつか自分も演ってみたい作品です。もっとも「ぢゃお前ジャンヌ演れ!」と言われたら逃げますですが。
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|09/29| 舞台コメント(0)TB(0)
無声映画鑑賞会の日でしたよ。

 上映作品はと申しますとですな。

●『折鶴お千』昭和10(1935)年・第一映画
監督/溝口健二
主演/山田五十鈴、夏川大二郎
弁士/澤登翠
●『お傳地獄』製作年代等詳細不明作品
監督/西原孝
主演/鈴木澄子、戸波謹之助
弁士/桜井麻美

です。

 皆さん気付いていないかもしれませんが、無声映画鑑賞会では毎月の上映会にテーマを設けています。今月は[古典映画に見る“女”の生き様]でした。師匠は毎月の前説でテーマにちゃんと触れていますが、弟子はテーマなんぞ気にした事は無いんじゃなかろうか。少なくとも上映会終了の時にテーマを意識した事は一度だってありません。あちゃー言っちゃった。

 でもま、考えてみたらテーマが決まってるんだから、それに沿った団体や何かに招待券を出すくらいの事をしても良いのかもしれませんね。それで仕事に繋がることはまずないでしょうけどね。でも、もしかしたらって事もあるしさ。せっかくテーマを決めてるんだから活かす方法を考えても良いのかもしれません。完全にルーティンワークになってる気がするのですよ。

 この日の上映には『折鶴お千』が入ってました。先日私も新文芸座で説明させて頂いた作品ですし、師匠の演目の中で私が最も好きな作品なのです。繰り返し書きましたっけか、この事は。

 考えてみれば私は過去2回、3ステージ『折鶴お千』を説明していますが、そのどれもが35㎜での上映でした。新文芸座では可燃性フィルムでの上映です。最も好きな作品をこのようなコンディションで語っているのですから、とてつもない贅沢をしているのです。そうして見ると、この日は16㎜での上映です。師匠の芸は素晴らしいのですが、しかし16㎜の限界も感じるのです。良い映像で語る事。これがどれ程弁士にとって大事か、最近とみに感じます。

 どこまで行っても映画は観る物なのです。往時において弁士が衝天の勢いを持って芸界を席巻していたのは事実です。その時代を述懐して「弁士ありきだった。映画は何でも良かった」という言説を時折目にします。それはそうなのでしょう。芸人にファンが付くというのはそういう事です。でも、それでもやっぱり弁士は映画ありきの芸には違いないのです。それは名実ともに弁士のトップであった徳川夢声師が「説明者など映画がなければ何も出来ない」と嘆いていた事からも知れるでしょう。

 ああ、良い映像で語りたい。そうすれば他の芸能に負けない自信はあるのに。


|09/27| 活弁コメント(0)TB(0)
追いまくられてます。

 来月7日のあるぽらんの中国映画の字幕翻訳と説明台本制作、14日の活動倶楽部の説明台本とパンフレット制作、それに来月末の無声映画鑑賞会の説明台本と解説…。

 結構な文字数である上に、文章がみんなカタいのです。いや、というよりも、元来アタシの文書はカタいのです。ガッコの卒論でも文章が無駄にカタいと先生に言われた位です。なのでカタい文章を書くのは苦痛ではないのですが、やっぱり肩が凝ります。なのでこっちに精々柔らかい文章を書くことで気を紛らわしていたりするのです。

 他にどっちみち文章を書いているのですから業が深い。しかもどれもこれもお金にならない文章というのも悲しいものがアリマス。

 どなたか、小遣い程度で構いませんので、原稿料のでる仕事くんない?駄目ですか。そうですか。

 カタい文章に戻るとしませう。
|09/26| 活動コメント(0)TB(0)
 先日アクセス解析なるものを搭載しました。詳しい方には何の事ァないんでしょうが、全てが手探りなボクとしては中々どうして進歩なんざますのよ。しかしですな、このアクセスなんちゃらという奴は偉い奴でして、どの県からこのブログを見てるのかまで分ってしまう。勿論、どんな単語で検索して来たのかなんて丸分りなのです。検索エンジンは何だったかもばっちりです。皆さんは此処を覗いてアタイの事を見ているつもりかもしれませんが、もはやアタイが皆さんの事を見ているののですよ。恐ろしい事に。

 管理人とはいえ、そんな権利あるんでしょうか?

 アパートの大家さんは店子の個人情報を掴んでいるとはいえ、滅多に見たりしないでしょ?ちょくちょく契約書やなんかを見かえしている大家の管理するアパートやマンションには住みたくないやねぇ。

 ま、とにかく、解析は非常に面白いオモチャでして、サーチワードを見ると分ることが沢山あります。先ず気付くのが片岡一郎で検索している人の少なさね。うん、殆どない。全然ない。全くない。ちっともない。

 しかし嬉しい検索ワードもありました。上田布袋軒、須田貞明などがそうです。どなたか知りませんがありがとう御座います。こんなブログでもどなかの役に立っているのであれば本望です。愚痴だけじゃないぜって事でよろしく。

 先日、ある方から食事の席で「どんな単語で来ますか?」と質問されて考えた結果、一番のヒットワードは「おっぱい」だという結論に到達したのです。ちなみに調べたら第二位は「デビルマン」でした。

 なぜ「おっぱい」かと申しますと、変なトラックバックありますでしょ?あれをメンド臭いので削除してないのです。どうやらそれに引っかかってくるらしいのね。しかし、別におっぱいの話題をした事は全く無い訳で、そんなに検索の上位に来る事はなおさら無い訳で、きっと大変な時間と手間をかけて、そして何ほどかの偶然の結果、たどりついたのでしょう。そしたらこんな文章ばっかりだったりするのです。

 ゴメンな。おっぱいでここまで来た人。
 
 あ、おっぱいで思い出しましたが、よく女性諸君が「男は大きなおっぱいが好き」だと決めつけていますが、それは大変な誤解であります。そんなに男は単純ぢゃありません。「男は大きなおっぱい好き」なだけなのです。冷静に考えれば理解できようかと思います。なんのこっちゃ。

 でもいいと思います。おっぱいの話とか。

 仕事の話題オンリーで、しかもワタシ輝いてます!みたいなの、あるでしょ?何かね、嫌いなのああいうの。そんなのより、おっぱいの話題してるほうがアタシは幸せです。おっぱいの話ばかりしている人は戦争をしないと思います。進歩もしなさそうですが。このブログのタイトルも「閑話休題」ではなく「おっぱい」にしようかとチラリと思ったりもするのです。ついでに言っときますと「閑話休題」は「かんわきゅうだい」ではなく「それはさておき」と読みますのよ。
 
 しみじみ思います。まともに就職してたら、きっといつかセクハラで馘になるんだろうな、と。
|09/24| もやもやコメント(0)TB(0)
 東京国際映画祭、アタシが毎年楽しみにしているイベントであります。なぜかってえとね、大阪の弁士の大先達、井上陽一先生が東京で拝聴できるほぼ唯一の機会だからなのです。

 よく言っている事ですが、お金を払ってでも聞きたい弁士は師匠・澤登翠、そして井上陽一の二人のみです。他は…只なら良いか只でもイヤかどっちか。ンなこたぁないけれど。

 その東京国際映画祭が今年も行われます。井上先生がいらっしゃいます。素晴らしい事です。しかも演目(あえてこう申しましょう)は『忠次旅日記』なのです。にわかに血がざわめくではありませんか。

 なのに、なのにでありますよ、弁士の欄にもうお一方の名前が、ある。(「ある」はタメて読んでいただきたい)

 嘉島典俊さんです。

 この方と無声映画は全く縁が無い訳ではありません。今を去ること数年前、今世紀初の総天然色無声映画が製作されまして、その主演が嘉島さんだったのです。であるからして、その結果、オイラも含めた若手弁士は『幕末渡世異聞 月太郎流れ雲』という作品を数度に渡って語っているのです。

 ま、いいでしょう。

 で、どうやってやるの?リレー?掛け合い?

 訳がわかりません。

 本音を言います。井上先生だけで聴きたい~、観たい~。変に二分割などして頂きたくない~。いいぢゃないですか、二回公演でやれば。井上バージョンと嘉島バージョンで。両方観に行くよ。だから、中途半端なことしないで。熟練の専門家と初挑戦を同じ土俵に上げないで。お願いしますよ。

 嘉島さんが駄目だってんじゃないのよ。嘉島さんのも聴いてみたいのよ。少なくとも、バカ高い似たような企画よりは嘉島さんの活弁の方が遥かに興味があります。

 ね、だからさ。今のうちに予定変更して二回公演にしちゃえって。誰も気が付かないから。ホントに。そしたら二回とも観に行くよ。

 それからさ、なんで佐久間良子さんがオープニングイベントのゲストなんすか?『越後つついし親不知』の撮影エピソードを語るんなら、その作品の前にやれば良いんではないの?そんなの『忠次旅日記』に対しても『越後つついし親不知』に対しても、どうなんですか?

 何かね、よく解んねぇっすよ。色々釈然としないんですよ。
|09/23| もやもやコメント(0)TB(1)
 思いつくままに書くのです。

 とある方のブログに書いてあった文章です。

弁士初体験。う~ん何というか至れり尽くせりなのだが、完全に受動的な鑑賞になってしまう。



 弁士を快と認識するか不快と認識するかはこの辺に重要な分かれ目があるように思いますね。では弁士嫌いな人が映画に対して能動的かというと、権威的な批評に対して極めて受動的であったりもしますので難しいところはあります。また、弁士を好きという方もやたらアクティブに意見やら感想やら批評やら何やらを仰る方もいますので、とにかく一概には言えませんけれど。

 結局は自分に一番快適な鑑賞方法を見つけるしかないのです。それから自分と意見の違う人を責めないというのも大人としては大事であると思いますよ。

 誰に言ってんだか知らんけど。

 責めるといえば、近年、キレるという言葉が世間に浸透しました。最初はキレる若者だったのですが、最近ではキレる老人が増えてきているのだそうです。老人にキレられるのは怖いです。その勢いで目の前で死なれちゃったりしたらコトですし、最低限、万が一にも反撃できないという意味においてキレる若者よりもタチが悪いと思われます。かとおもったらクラシックコンサートでもキレる人が増えてるんだそうです。『のだめカンタービレ』の影響でマナーを知らない客が増えて問題になる。と、ここまでは誰しもが予想していた事なのですが、そうした新しい客に対して「マナーを知っている客」がある瞬間にキレる事があるのだとか。

 キレる、はもう完全に社会現象になっているようです。子供から老人までまんべんなくキレるのですから教育の問題だけではなさそうです。やっぱり食い物かしら。それとも環境ホルモン(この言葉も聞かなくなってきました)ですか。それとも一時期指摘された携帯電話の電磁波が脳にいよいよ影響を及ぼしているのか…。興味は尽きないところであります。

 その携帯電話でありますが、これもまた興味深い報道を先日続けて見ました。つまり「プロフ」と「闇サイト」がそれなのです。

 プロフって御存じ?無声映画を好んで観ている様な皆様。アタシは最近知りました。携帯で造れるHPの簡易版で、その名が示すとおり管理人のプロフィールが掲載されているんだそうです。名前、ニックネーム、好きな芸能人、好きな食べ物、血液型etcetc...。その項目は数十にもなっていて、なんという学校の、何年何組で、出席番号何番かまで分る人も少なくないのだそうです。当然メールアドレスは公開されていて、利用者の少女達(が大半だそうな)はそこで友達を探すのだそうです。ま、出合い系の変化したカタチなのかも知れません。

 「闇サイト」は言うまでもなくイリーガル、非合法な情報が満載なサイトですね。売春、麻薬、時には人殺しまで頼めてしまう。そんな世界に携帯からアクセス出来るようになってしまったのだそうです。

 世の中便利になったモンです。昔だったら人殺しなんか誰に頼んで良いものやら見当が付きませんでしたが、現在では携帯で探せるのです。ヒットマンが。キレる人が携帯で人殺しを依頼できる世の中ってなぁ、そら恐ろしいぢゃありませんか。

 闇サイトはやや特殊な例としてもプロフだとか、出合い系サイトを含め我々は携帯への依存が極めて高くなってしまっている事実は否定のしようもありません。電車に乗るとみんなが携帯を覗き込んでいます。光景としては極めて気持ち悪いのですが、自分もその中の一人だったりしてヒジョーにキビシかったりするのです。

 そんな状況を私の知人は鏡を覗き込むナルシストに見立てて楽しんでいるようです。http://i-ro-ha.vox.com/library/post/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88.html

 この知人のブログからは携帯とナルシズムを結びつける発想は面白いな、と感じたのでした。

 一般的に携帯依存症は現代人の寂しさ、孤独、空虚感の発露として取り上げられる事が多いように思われます。自分が寂しいから常に他者と繋がっていたくて携帯を始終いじっている、という認識です。しかしながらメールを打つ、電話をかけるといった能動的な行為は、その行為が相手にとって迷惑でないと思っていなければ出来ない行為な訳です。という事は、常に誰かと繋がっている状態というのは、自分が誰かに必要とされていると思えるからこそ出来る行為とも取れるのです。

 強引ですか?解り辛いですか?

 自分の中でも未整理な感覚なので、解り辛いのは仕方ないのですけどね。でも、簡単に言って、しょっちゅう誰かに連絡している人は、どこか自信がある人の気がするのです。アタシなぞは未だに電話の度にドキドキしますから。だからやっぱり、ある種のナルシストでなければあんなにずっと携帯をいじくってられない気はするのです。
|09/19| もやもやコメント(0)TB(0)
昇進の会

 気付けば長いお付き合いの志らく一門でありますが、目出度くこの度、らく里さん、志らべさん、らく次さんのお三方が二ツ目昇進しての披露目の会でありました。

 二ツ目昇進が内定したと思ったら取り消し。披露目の会をやろうと思ったら会場決定で一モメ。なにやらご苦労の連続であったようです。ようです、というか大体聞いて知ってるのですが、でもまあ、それはそれで。

 出演はお三方と志らく師匠、談春師匠でありました。

 感想は、書けませんやね。知り合いばっかりで。座席だってワザと端っこにした位だもの。真ん中最前列という選択肢もあったのです。でも、流石に、ね。

 二ツ目というと、実はその昔の無声映画鑑賞会のパンフレットに「今月から澤登翠と二ツ目にする」みたいな文章が載ったことがあります。春翠先生はそうしたシステム面でも残そうとされていたのが分ります。いや、落語家さんの真似をしたかっただけかもしれないけれど。結局、その後の昇進などはなく、春翠先生は御他界されてしまいました。弁士の世界には寄席芸能ほどの序列はありませんが、現代ではある程度必要かもしれません。色々乱れてるし。
 
 話を戻しましょう。

 この日の楽屋裏はやっぱり相当慌しかったようす。そんな中での高座ですから自己採点で満点の方はいないのではないかと推察します。でも、皆さんやっぱりいい顔してました。舞台袖から高座までの拍手で包まれている時間の顔などはもう、ホントに。『死神』を演ってる最中の志らく師匠は凄い顔してました。
|09/18| 舞台コメント(0)TB(0)
リスペクト 溝口健二

 南明奈って娘が一寸可愛いと思ってるのですが、いかがでしょうか。関係無ぇっすね、ええ。活動写真弁士の片岡一郎です。新・文芸座で喋ってきました。その備忘録で御座るよ。ニンニン。
 
 常々言っている事ですが、ここではっきりと言っておきましょう。

 アタシは『瀧の白糸』よりも『折鶴お千』の方が好きです。てかいい映画だと思ってます。

 いや、作品の持つ情緒とか、監督の特性とかを考えたら、それから公開当時の評価をみたら『瀧の白糸』の方が評価が高いのは分るんです。

 初めて『折鶴お千』を見たのは世田谷文学館でした。まだ素人ファンとして澤登翠の公演をちょろちょろ観て廻っていた時分。大して広くもない会場に楽団も付いての上映だったと記憶しています。この会場での感動とラスト付近での場内のすすり泣きが未だに忘れられないのです。場内と自分の感覚、それに勿論パフォーマンスと映画が見事にシンクロして「これは凄い作品だ」と思ったものでした。私の好きな無声映画でベスト3を選べと言われたら確実に入ります。その位好きな作品が『折鶴お千』なのね。対して『瀧の白糸』にはそうした経験がありません。小さな声で本音を言うと『瀧の白糸』アンマリスキジャナイ。

 師匠の語り芸としても良い時の『折鶴お千』は凄いです。圧巻な時があります。

 そんな『折鶴お千』ですから演る気はさらさら無かったのです。10年とか15年とか、せめてそれ位キャリアを積んでから演るつもりでいたのです。そしたらさぁ、去年よフィルムセンターに演れっていわれて演りましたよ、しぶしぶ。まぁそれだけ思い入れの強い作品だから他の奴が語るよりは良いかなとも思って。もの凄いプレッシャーでしたよ、当日はずっと吐き気がするんですな。ちなみにアタシは本番前の緊張が凄いのです。30分前には大概吐き気にさいなまれてます。誰も信じてくれないけれど、でもホントなんだよォ。

 とに角、フィルムセンターで演りました。で、もうしばらくはオサラヴァだと思ってたら新・文芸座ですよ。もうね、やっぱり吐き気、イライラ、凄かったのです。

 出来は言い訳しません。噛みました!メチャクチャ。いや、全体としては悪くなかったんスけどね。これで噛まなきゃもう少し…と思いながら自分の出番を終えたのですってやっぱり言い訳してます。恥ずかしい事です。なぜあんなに噛んだか、理由ははっきりしてるのですが、それは書かないでおきましょう。ご来場の皆様、噛んでスミマセンでした。その代わり噛んだ以外の事は謝りません。おゝ強気。

 でも作品解釈自体は発見があったから自分にとっては良いんだ。うん。
 それからこの日は大入りが出ました。ありがとう御座います。
大入り袋


 こういう作品と対峙出来るから弁士をやってるのです。

 以下、マニアの方用の情報です。興味のある方のみ、続きを読んで下さい。
|09/16| 活弁コメント(3)TB(0)
 池袋の新文芸座で『折鶴お千』を演るらしいですよ?
|09/15| 活弁コメント(0)TB(0)
 安部首相が辞任しましたね。困っちゃうよなぁ、政治がどんどんワイドショー化していきます。一国民として困るっていうのもありますが、それよりも芸人としても困ったもんです。だって政治が今一番面白いですもの。笑いという意味では政治を面白く語る事はできるし、爆笑をとれれる人もいるでしょうけれど、現象として純粋に政治より面白い芸人はそうそう居るもんぢゃありませんやね。

 安部さんは総理としての手腕どうこうの前での退陣となってしまったように思います。何がしたかったのかすら伝わってこなかった、何だか可哀相な内閣でした。きっと「間」が悪いのでしょう。間は魔である、という言葉もありますように「間」は斯くも大事なのであります。

 安部首相が「ボク、総理大臣辞める!」とか言って世間をビックリさせている頃、アタシは仕事中でしたのでその事実を知るのには数時間を要しました。そしてその間に仕事でお世話になった方が「今月で会社辞めます」と話してくれていたのでした。辞めると聞いて、普通は何を思い浮かべるのでしょうか?今回、私は「あぁ、そういう選択肢があったか」と思ったんですね。

 現代において、仕事を辞めるという行為はさのみ珍しいモノでは無くなりました。経営者にとっても、労働者にとっても終身雇用は神話となってしまいましたし、我々の世代では学校卒業時に就職した会社を辞めている奴の方が多いのではないかと思います。やりたい仕事と働いている会社という、理想と現実のギャップが生じたときに理想を優先させるのは決してイケナイ事ではないのだと多くの人が思うようになった、ということでしょう。

 何を今さらかと思われるやも知れませんが、何しろ就職すらしたことが無いもので…。

 とにかく、仕事を辞めるのがネガティブな行動ではなく、むしろ新しい人生を開く為のポジティブな行動であると認識されているのが現代なんだなァと思ったりします。

 ところがこの感覚、芸人にはあまり当てはまりません。芸人が芸人を辞める時、それは「辞める」のではなく「諦める」パターンが殆どだからです。どんなにマイナーだろうと、年に一度も仕事が無かろうと、自分が芸人であると任じていれば、その人が芸人である事を否定する事はできません(そういやこないだ某批評で素人扱いされたっけ…。まあいいや)。突然株で大もうけをしたりしない限りは芸人を「諦め」ずに「辞める」人は居ないのであります。なので芸人を「辞める」事には余りポジティブなイメージが伴いません。もっとも家族にしてみれば大いにポジティブでしょうけれども。

 「あぁ、そういう選択肢があったか」と思ったというのは、そういう理由からです。自分の中に「辞める」は選択肢として無かった。少なくとも前向きな行為としては。

 そんな事を考えてみると総理大臣というのも実は芸人に近いのかもしれんと思えてきたりするのです。辞めざるを得ない状況はあるにもせよ任期を終える前の退陣は、やっぱり「諦め」ている様に見えるからです。

 幸か不幸か私はまだ芸人のままです。それは私が芸人を諦めていない事の証左であるのです。でもね、もしかしたらアタシだって明日には体調不良と、責任を果たす為という名目で芸人を辞めるかもしれんのです。総理が辞める位だもの、誰が何を辞めたって良いのかもしれません。そう思えば少し気が楽になります。

 「辛かったら逃げても良いんだよ」これが安部首相の隠されたメッセージだったり、しねぇな。うん。
 
|09/13| もやもやコメント(2)TB(0)
 ようやく書きました。7月22~26日の分を御覧下さい。
 
 アタシのブログは突然過去の事を書くから油断できない。
|09/10| 活動コメント(0)TB(0)
 たまーにゲームのお仕事をさせて頂いておりやす。といっても僕はゲームをする習慣が全く無いので出っぱなしです。自分の声がどういう具合になってるのか未だに知りません。自分の声を聴くのは好きではないのでどっちみちプレイしないとは思いますが。

 それでも公表後に評価が高いか低いかはやっぱり気になるのです。ゲームであっても、それ以外でも。『春の雪』しかり『ロンド・リーフレット』しかり。

 んで、何ヶ月か前に吹き込んだゲーム(チョイ役ですがね)が発売になっていたことに気付き調べてみた訳よ。評価は可も無く不可も無くってところでしょうか。しかし評価より気にかかる部分を見つけてしまいました。それはこのゲェムの出演者です。

 こんなメンバーです。

あり、成瀬未亜、かわしまりの、神村ひな、風音、榊原ゆい、
星乃あずみ、深井晴花、風見健、東かりん、マグナムJ、片岡一郎、
どぶ六郎、ルネッサンス山田、Back麗男、KIN肉男

 なんかさぁ、普通すぎて浮いてねぇ?片岡一郎って名前。やっぱり別の名前考えようかね。

 ベンジャミン大根とか、どう?
|09/09| 活動コメント(0)TB(0)
 この情報を扱いかねています。迷いも載せるのをモットーにしておるブログですので(言い訳)書いときます。
http://yubarifanta.com/archive.php?num=1992&langue=21010
 いえね、ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭'92の情報なのですよ。上映作品に阪妻の『血煙高田馬場』とありまして、ゲストに大野政夫と和洋合奏団が来てますから音声を消して活弁での上映をしたのでしょうけれど…。ちなみに、この形式は浜星波先生の吹き込みでビデオになっていますし、浜門下の井上陽一先生もこのスタイルで公演をされているはずです。

 そこまではいい。いいんです。しかし、ゲストに弁士らしき名前を探すと伍東宏郎の名前がある。はて?何者?二代目でしょうか?それとも三代目?こんな近年まで活動していた?田中映画社の人に聞けば何かわかるかしらねぇ。

 弁士の歴史を調べる時、往年の弁士と現在の我々の間に何人か現れては消えた泡沫(といっては失礼だけれど)弁士の存在はとても気になるのです。何しろ彼らの100%が売れなかった為に痕跡が殆ど残ってないのです。しかし、この伍東宏郎は、はたして正式な襲名なのか、それとも勝手に名乗っただけなのか。もっと言やぁまだ生きてるのか。

 私、実は弁士なんですって方、ここを見たら連絡下さいな。んな奴いねえとお思いですか?でも、こないだも香川で弁士やった人がいるみたいよ。http://muremure.blog35.fc2.com/blog-date-20070902.html
 銀幕閑話で再び紹介して頂きました。見てやって下さいまし。そしてお仕事下さい。
銀幕閑話:第155回 今、サイレントでhttp://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/cinema/news/20070831org00m030118000c.html
|09/05| 活動コメント(0)TB(0)
 アタクシは日大の芸術学部という所におりました。もう少し詳しく書くと演劇学科の理評コースなのであります。理評というのは芸術学部の造語で、理論・評論を摘めたものが理評です。では私が理論や評論を学んでいたかといえば、どうにもさっぱりそうした記憶が無く、日々をボンヤリと過ごしていたように思います。同じ学費を払っていながら演技コースや照明コースはジャンジャン機材を使って学費の元を取っていくのに対し、理評コースは舞台を観に行くのに補助が出るでなし、唯一の特典としては原稿用紙が貰えるだけでした。しかも、その原稿用紙がミョウテケレンな原稿用紙で文字枡が長方形の何とも書き辛い紙でした。故に私一度もその原稿用紙を使った事がありません。そんな理由もあり、私の母校に対しての恨みは凄まじく、現在に至るまで何かにつけ母校を利用し、一生をかけてでも学費の元を取り返す所存なのであります。しかしこの行動はハタから見ていると、卒業をしても学校に顔を出す母校大好きっ子に見えてしますうのがタマに傷なのですが。

 さぁて、今回のテーマは評論であります。上で書いたように学生時代は理論・評論をやっていたオイラですが、現在では評される側に回っているのだから人生とは、これ愉快なものであるといえましょうか。

 実は最近立て続けに自分に向けられた二つの批評を読みました。どちらも七月の無声映画鑑賞会、つまり一門会を観て書かれたものであったのです。本当は全文掲載したいところですが要点のみを紹介します。

批評A
 活弁を見るのは初めてで、弁士が芸人かどうかに関心があった。見た結果としては澤登翠は紛れもなく芸人であったが、その弟子からは芸人らしさを感じ取れなかった。落語家であれば前座でも芸人らしさというものは出る。勿論、芸人らしくある必要は現代においては無いのかもしれないが、澤登翠という「芸人」の弟子として人前に出る以上、弟子にも芸人であって欲しい。
批評B
 活弁は既に何回か見ている。片岡一郎の語りは所々笑いを取るようなやり方で、受け持ちの場面とはそこそこマッチしていた。しかし息継ぎや語りのリズムに癖があり、映画から意識が逸れてしまうのが残念。

 この二つを読んで私は片方からは大いに刺激を受け、片方からは大いに苛立ちを感じたのです。どちらがどちらとは言いません。知りたい方は個人的に聞いてください。でもまぁ、解りますわな。

 批評はこの数年で劇的に変化したジャンルと言えるでしょう。それは誰しもがプロと同じスタイルで自分の感想を発表できる事に起因します。私が小学校の頃はプリントはまだ先生の手書きを藁半紙に印刷した物でした。ほんの十数年前までは活字というだけで最低限の手間と費用がかかっていたのが、今では手書きの方が手間がかかる様になってしまいました。言うまでも無くワープロ、そしてパソコンの普及が原因です。かつてプロのための道具であった活字は誰もが利用できるツールになった訳です。

 プロかアマチュアかを決めるのは能力ではありません。プロのスタイルを維持できるかという点が大事です。その意味においてプロの文筆家の定義は活字の流布のよって曖昧さを増したといえます。まして批評は劇作と違い誰でも出来ます。感想をただ書いただけでも一応は批評の体を成すのですから。

 自分はプロとアマの見分け位はつく、と仰る方も居るでしょう。しかしプロの外面をまとってしまうと我々は先入観で対象をプロと決めつけてしまいますから、言うほど両者の見極めは容易ではないのです。帝劇の舞台に素人が出ていたとして、その人をアマチュアと断言できる人がいるでしょうか。多くの人が「下手なプロ」として認識するだけでしょう。

 活字が誰でも利用でき、その次に来たのはインターネットでした。これでいよいよ誰でも自分の意見を発表出来るようになります。批評をしたい人にとって現代ほど素晴らしい時代は無いといえるのです。結果として批評や感想、評論、自論、暴論その他色々、ネット上には言説の嵐が常に巻き起こっているのはご存知の通りです。その最たる例がブログであるのも、これまたご存知の通りです。

 世間の人がこれほど何かを語りたがっているとは誰も予想していなかったのではないでしょうか?

 批評には正解はありません。その事がなおさらアマチュアのプロ化、プロのアマチュア化を促しています。別にアマチュアを批評をしたっていいのです。言論の自由を挙げるまでもなくね。ただし人目に触れる場所に意見を出す以上、自分の言葉のもたらす影響、自分の言葉の意味を考えて頂きたいとは思うのです。自戒の意識も込めてこの項は書いております。

 誰もが批評家になれる現代。国語教育で必要なのは読み取る力以上に書くときの配慮かもしれません。
|09/05| もやもやコメント(0)TB(0)
運命ってヤツが嫌いでして…。

 上手くいかない事を諦める為の運命も、ハッピーを説明する方便としての運命も嫌いなのです。運命が有るか無いかなぞは死んだ後にでも判断すればよろしい。

 とはいえ運命はとても便利な装置ですから、様々なシチュエーションで利用されます。

 人間の運の総量は決まっている、とかいいますね。運を使い切った、ともいいます。良い事の後には悪い事、悪い事の後には良い事があるのだ、とも。これも言ってみれば運命論のバリエーションに過ぎません。

 実はね、この一年ずっと動いていたプロジェクトがようやく実を結んだのよ。
フィルム

 見る人が見れば解るので解説はしませんけれど、とにかくとっても嬉しいことだったのです。だってそうざんしょ<一年の苦労がようやくです、気が大きくなるのも道理なのです。そ・う・し・た・ら、翌日の夜にコンタクトレンズを落しました。しかも外で。もう見つかりっこありません。長く使っていたレンズなので両目とも買い換える事にしたのですがサンマンエン以上の出費と相成ったので御座います。アタシのクロアチアのギャラの大半はコンタクトレンズに消えてしまった、嗚呼。しかも私は近視と乱視のカクテルで出来た目をしていて、レンズは必ず工場からのお取り寄せになってしまうのです。そうすると左右の視力差がとんでもない事になりまして、仕方がないのでここ数日は片目を使わずに暮らしておりまして…。眼帯クンであります。会う人毎に「どうしたの?」って聞かれるので答えるのが面倒なのれす。

 しかもコンタクトレンズに大枚突っ込んで帰宅すると、我が家の愛猫が私のお布団に吐いていたという。

 良い事の後には悪い事って有るもんだと考えずにはいられんのでありますよ。

 運命ってヤツが嫌いでして…。

|09/04| もやもやコメント(0)TB(0)