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 今年の漢字は「偽」でありました。今年の流行語は「(宮崎を)どげんかせんといかん」&「ハニカミ王子」でありました。

 何かを象徴する言葉や物、事を選ぶのは公平でいるつもりでも相当に主観的かつ恣意的になってしまうモノです。流行語大賞などは選考基準がどうにもアヤフヤで発表を聞いた側は?と思ってしまう場合も少なくありません。とまあ、こう書くからにはそれなりに自分としての本年を象徴する言葉の回答がある訳で、もちろんそれとて多分に主観的ではありますが流行語大賞よりはマシだと思うのです。少なくとも「どげんかせんといかん」なんて言葉は流行ってませんよ、流行ったのは東国原知事でしょうに。「ハニカミ王子」だって去年からの「王子」ブームの延長だしねぇ。お2人の活躍を否定してるのではありません。話題の人というのであれば良いんですが流行語では無いだろうと、そういう事です。

 こんな風に大言壮語してしまうと自分の意見が言い辛くなるのですが、個人的に本年を象徴する言葉を申し上げさせて頂きますとやっぱり「KY(空気読めない)」に落ち着く気がするのです。

 現代はコミュニケーションの問題が度々取り沙汰される時代であります。携帯やメールといったコミュニケーションツール(ブログもそうですな)が増加の一途をたどっているのにも関わらず人と人のコミュニケーション≒触れ合いの空洞化が指摘されています。考えてみれば人間関係が希薄になるのは当然の事で、人の関係性はツールが発達してもそれを行使する人間が変わらない以上、コミュニケーションの基本は変化しようがないのです。そして近年定着している様々なツールはそのどれもが相手の都合を考えなくて良いツールなのです。電話一つとっても相手をおもんばかると言う意味においては変化しています。たかだか30歳の私だって高校位までは電話は相手の家に掛けていました。とすれば当然電話を掛ける時間帯は大いに問題となってきます。ましてや恋愛ともなればクドクド申し上げる必要もないでしょう。お互いに電話を掛ける時間を示し合わせて、片方はその時間めがけて電話を掛け、もう片方は電話の前で待っている。いや、電話の前で待とうとしたら、お父さんが長電話を始めてしまった…。みたいな恋愛の基本的な行動がもはや完全に崩壊してしまいました。当然、電話なぞが普及する前はもっと違った形のコミュニケーションがありまして、その辺は無声映画を見ていただくと大変よく解るので詳述はしません。詳述はしませんというか、そもそも電話の話ではなくてコミュニケーションの話でした、これは。

 何が言いたいかと申しますと、電話ひとつ掛けるにしても、ほんの数年前までは相手の都合のみならず相手の家族の都合まで考えにゃならんかった。ところが現在はダイレクトに相手と交信できますから考えるのは相手の都合だけでよろしい。これはとても便利なのです。その便利さを獲得する為に我々は携帯電話依存症という病を気付かない内に植えつけられてしまっていて、これはとても不便な事なのですが、しかしその辺には誰もが目を背けているのが実態でしょう。また話が逸れました。

 そうそうコミュニケーションです(コミュニケーションて言葉の入力はキーボードでも面倒くさいね)。このコミュニケーション能力に多くの人が不安を抱いているのが昨今の日本であろうと思うのです。ですから誰しもが自分は人ときちんと接しているのかイマイチ自信がない。自信が無いところに持ってきてネット上ではブログだの2ちゃんだのミクシィだのといくつもの人格をいつの間にか演じなければならなくなってしまう。いい大人がアイデンティティロストの状態に落とし込まれている訳です。大人になり切れない大人、アダルトチルドレンと言う言葉も数年前に流行りましたが、一度大人になったはずの人が自己同一性を見失って子供化してしまう状況が起こってきている気がします。ましてや高校生位で生身の人間と接するよりも、知らない人と文字や何かでのやり取りが中心のコミュニケーションばかりをしていれば満足な自我が確立される訳もないと言えるでしょう。

 ん~、ご免ね。思いつくままに筆を走らせているのでまとまりは全く有りません。わかり辛いやね。いつもの事ですか?そう言って頂けると助かります。

 で、コミュニケーション能力が不安な人達がどうすれば安心できるかというと、解り易い方法が二つあります。

 ①周囲に認めてもらえる人気者になる。
 ②自分よりコミュニケーション能力の低い人間を見つけて安心する。

 ①の方はさらに解り易く言うと笑いを取る事です。お笑いブームがもう終わりだと繰り返し言われながら終わらずに続いている背景、つまり笑いのお手本を求める理由にはこうした理由があるのではないかと今思い至りました。こじつけです、はい。②の方はお分かりですね、KYを生み出す原動力です。実際KYという言葉は私が触れた範囲では多分に陰口的な性格を有していました。本人不在の場、もしくは聞こえないように「空気読めよ!」みたいに言われるんですね。このテの陰口の源には「自分は違う」という主張が込められているように思えて仕方がない。アイツが空気を読めていない事に気付いている自分は空気を読めている、というロジックが非常に安易な形ではありますが完成します。いわば魔女狩りと同じ構造なのです。魔女を告発した私は魔女ではないというアピールは中世において繰り返し行われました。相手が本当に魔女であるかはどうでも良いのです。大切なのは自分が魔女でない事を主張する事なのです。

 私的な見解をいえば本当に空気の読めない人など殆どいません。お父さんのお葬式で突然パンツを脱いでお坊さんにおしっこかけたりする人いないでしょ?空気が読めないと言うのは気狂い?みたいな人の事を指すのです。大抵の人は空気が読めているのです。少なくとも笑いでスベったからといって空気が読めないことにはなりません。その辺お笑い芸人とテレビに影響され過ぎです。でも影響されるという事だって、そもそもある程度の認識能力が無ければ出来ないのですから、やっぱり空気が読めてる訳ですよ。

 いい加減取り止めも無くなってきたのでこの辺にしておきます。コミュニケーションの問題に関してはもっと書けるのですがね。結構な時間をこの程度の記事を書くのに費やしてしまったのでひとまず止めることにします。

 KY、これだけゴチャゴチャ書いておきながら私は使わない言葉です。でも面白い言葉です。現代を象徴していると思うのです。少なくとも「ハニカミ王子」よりはね。
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|12/31| もやもやコメント(0)TB(0)
 本日はお世話になっているロックンバナナ&イエローテイルの忘年会でありました。会場は江古田の信濃路でありまして、ここは大学時代にもサークル?部活?で使った事があるお店です。まさかこういう形で再会するとは思いもよりませんでした。

 お世話になってるといっても正直知らん人ばかりです。知らん女の子ばかりです。なので人見知りなオイラは借りてきた猫のように大人しくなっていたのです。そして知っている数少ない人にカラみ続けるというという大変によろしくない新人でありました。ゴメンな池々君HP紹介するから許せな。

 大人しくねぇぢゃん。

 人見知りならとっとと帰りゃよさそうなものですが、どういう訳だか二次会にも参加してしまったのは、きっと飲み足りなかったからでしょう。二次会は江古田の某チェーン系居酒屋でして、思った以上の大所帯の一行は大部屋(約20人)とテーブル(約4人)に分かれたのです。僕ですか?きまってるぢゃないですかテーブルですよ。こちらでは先程の萎縮も無かったかの様にパアパア好き放題喋りました。楽だったんですね。某A上嬢と某O野氏と私の3人が中心となり、それ以外のメムバーは順次交代しながら最初から最後までアレな話題オンリーでした。声優だったり歌手だったりするA上嬢とマネージャーだったり役者だったりするO野氏と弁士だったり書生節の歌い手だったりするオイラが夜中の11時過ぎにアレな話題で大盛り上がりしたのは、おそらくお店にとって迷惑だったのでしょう。店員さんに「済みません。もう少しトーンダウンをお願いします」と怒られてしまいました。

 オサレなBarではないのです。チェーン系居酒屋です。

 問題なのは声量だったのか、話の内容だったのか。僕ワカンナーイ。
|12/28| 活動コメント(0)TB(0)
レコードが届きました。ここ2年ばかり探していた物が古書店の目録に載っていたので慌てて注文した物です。

 前回はヤフオクで出品されていたのですが競り負けてしまったのですね。もう少し正確に言うと、私以外に入札がいなかったから最低の金額だけ入れておいたら終了間際に突然、てパターンです。悔しかったのなんのってアナタ。よくあるけどね。

 物を集めていると競り負ける、一瞬目を放した隙にさらわれるというのは付き物です。こういう時、私は荒俣宏氏の言葉を思い出して耐えるのです。

 一度市場に出たものは必ずまた出る

 良い言葉ではありませんか。もっとも次に出るのが50年後、100年後の可能性だってあるんですが。

 今回手に入れたレコードは、そのなもズバリ「活弁」です。収録は以下の通り。
1、真白き富士の嶺 西村小楽天
2、金色夜叉 福地悟朗
3、佐土情話 西村小楽天
4、国定忠治赤城落 竹本嘯虎
5、吉良の仁吉 谷天朗
6、月形半平太 竹本嘯虎

 んでもってジャケットね。
活弁


 いいじゃんかよう。嬉しかったんだよう。自慢させてくれよう。
|12/27| レコードコメント(0)TB(0)
 思いは伝わるものだと思っています。

 あ、引かないで。

 いえね、好きとか嫌いとか言う気持ちは自分で思っているよりも解り易いって話ですよ。

 私は自分の好きな人には大抵良くして頂いてます(除恋愛)、関心が持てない相手は向こうも相応です(除恋愛)、嫌いな相手は概ね私の事を嫌ってます(含恋愛)。ま、つまりそういうモンだって話なんですがね、そのパターンに当てはまらない事もあります。そんなに難しく言う必要も無いのですが誰でも、あの人が好き、あの人は嫌い、があると思います。もちろんアタクシにもあります、もちろんどころかどっさりと。その中でももっとも不可解なのが「いつの間にやら嫌われてる」ってヤツですね。これも今までに何人かいます。もっというと今も一人います。私の事をはっきり酷く嫌っている人が。

 何でだか解んないんですね。私がその人をはっきり認識した時には、もう嫌われてました。それ以前にも多少の接点はありましたけども、その期間に何かやったか?俺。

 それから嫌いたくはないのに、様々な関係性がこじれて、どうにも好きでいられなくなってしまう場合もあります。悲しい事です。これも今年御座いました。

 自分の場合恵まれていると思えるのは、さっきも書きましたが好きな人には好きでいてもらえるという状況が大半だという事です。好きな人に嫌われるのはさぞかし辛かろうと思うのです。でも世の中にはそうした事も決して珍しい事ではないのでしょうし。

 なぜ、人は人を好きになるのか?

 あ、引かないで。
 
 実は単純に優秀な子孫を残す為だという説もあります。動物に置換してみると解り易いのですが、野生動物は優れた異性といかにして交配するかが最大の目的といっても過言ではありません。その為に様々な声で鳴き、とりどりの色彩を身体に配し、強さを競うのです。こうした行為はほとんどがオスの行動で、メスはそれを見て、最も優秀と判断したオスと交配をするのです。自然界は大変な買い手市場な訳ですが、ともかくこの優秀な固体を選ぶという選別行為がすなわち人間の好き、恋に対応するという考え方ですね。人間同士の関係性は交配だけの問題ではありませんから、この理屈は極論に位置する感覚ではあります。しかしながら人間というものをあまり難しく考えずに動物に戻してやると、様々な事態が理解し易くなるのも事実です。

 好きだと思える人は自分より優秀、嫌いだと思う人は自分より拙劣である。と内心自分は思っているのだと考えれば好き嫌いのメカニズムが少しだけ見える気がするのです。

 んん、見た舞台、読んだ本、やった仕事のレポートみたいな記事を書く気が全く起きません。ま、そのうち気が向いたらまた書くでしょう。だれも待ってないだろうし。今夜は下町ダニーローズの『どん底』を観に行く予定ですのよ。
|12/27| もやもやコメント(0)TB(0)
どん底

 下町ダニーローズ第八回公演『どん底』であります。今回は有料パンフレットに関わらせて頂きました。考えてみればありがたい事です。

 そして考えてみれば私は日本大学芸術学部演劇学科理評コースの学生だった時代があったのです。当時を思い出してガッコにレポートでも提出するつもりで書いてみようかと思います。関係者の皆さん、面白いと思ったらコメントか何か下さいな。腹が立ったり、解ってねぇなとと思ったらスルーの方向で。お互い大人ですものね。なんて逃げを打っちゃイケマセン。

 ちなみに12月27日付けの記事ですが、これは私が観劇した日であり実際のアップは楽日の夕方です。ネタバレしちゃってるじゃないかみたいな心配しなくても大丈夫です。これは関係者の皆さんに向けてのメッセージです。それから学生レベルですが一応劇評の体裁をとっていますので敬称は付けません。なので文中では私如きが志らく師匠を呼び捨てにします。立川志らくとか志らくとか。別に気持ち良いなんて思ってません。でもこんな理由でもなければ呼び捨てにはできないじゃないですか、志らくだなんて。もいっかい言っとこ、立川志らく。
|12/27| 舞台コメント(0)TB(0)
聖なる夜の上映会 チラシ

 クリスマスの夜に教会で上映会です。いいアイディアだと思います。

 上映データはと申しますと。

●『魔女』(HAXAN 1921年 スウェーデン)監督・主演/ベンヤミン・クリステンセン
 鍵盤楽器演奏/柳下美恵  古楽器演奏/近藤治夫

であります。あれ?何だか妙にデータが簡素だ。まあいいか。

 聖なる夜に教会で『魔女』だもんねぇ、なんて事前に話していたのですが、別段魔女礼賛の映画でなし、その実大した問題がある訳ではないのです。

 さて、その『魔女』ですが現在は紀伊国屋からDVDが発売されておりまして、そのDVDの音楽も柳下さんが担当されています。考えてみれば1921年のスウェーデン映画が自宅で見られるというのはある種の異常事態と思えるのですが、それが当たり前になっている現代の不気味さは常にスルーされています。一度手にした利便性は容易に手放せないのですね。この日の上映では、そのDVDを使うのかと思いきやフィルムでの上映でありました。ありましたが、いかんせんフィルムの画質が極めて悪い。(画面が)明るいシーンは白くトンでいるし、暗いシーンは真っ暗という塩梅で古い映画を見慣れた人間であれば見えないゾーンに何が映っていたかを予想してある程度の鑑賞が可能ですが、初めて観た無声映画があのフィルムという人もいるでしょうし、そういう方には何がなにやらチンプンカンプンなフィルムであったと思います。

 ではイベントとして駄目だったのかというと決してそうではないのです。お二人は画質を前提として相当に饒舌な演奏をされていました。これが良かった。とかく無声映画のイベントはパフォーマーが従の位置に置かれがちですが、画質が思わしくない場合や観客が無声映画に不慣れな場合は思い切って主に転じる必要がままあります。今回のプリントがまさにそれで、フィルム>演奏ではなく、フィルム<演奏の位置関係を作り音楽で何を表現しているのかを映像がフォローするが如き状況こそが適当であろうかと思います。もちろん柳下さんがそういうスタイルを望んでいない事など百も承知ですし、クラシック映画ファンがそうした映画が従であるという理屈を嫌っているのは二百も合点なのです。しかし、しかしやっぱりプレイヤーが主たるべき環境は確実に存在するのですよ。

 というかね、無声映画を映画という単位から解放してあげる事が今後重要になってくると思っているのです。個人的には。
魔女 DVD

 この画像はと申しますとDVDの『魔女』のパッケージです。ちゃんと買って持ってます。こちらの映像は極めて美麗であります。弁士をしていると年々美しい映像に対する欲求が大きくなってゆきます。いかに美しい映像で語るか、これは大いなる問題なのです。

 しかし、今回の教会もそうですし洋館も同様ですが、柳下さんは上映会場の選び方が素晴らしい。映画は暗くして観るものです。ということは終わった後に明るくなるのです。当然とあなどる事なかれ、これが大事なのです。明るくなった後の空間がどれだけ満足度を分けるか。映画という暗闇の中で見る夢から醒めた時、夢の続きを空間が保ってくれれば、それだけで公演のグレードは変わってしまうのです。誰にでも覚えがあるはずです、素敵な夢を見ていたのに、不図目が醒めたら自分の部屋だったあの落胆を。上映会場がセコイというのはそういう事なのです。ましてや映画は暗から明に視覚が劇的に変化します。明るくなった時に無味乾燥な公民館の会議室では駄目なのです。だからこそ、会場選びが上手い柳下さんは凄いなと思うのです。

 とか何とか褒めてますが、上映中に黒いドレスで中腰になって愉快そうに太鼓を叩いている柳下さんは、なんつーか魔女でした。いや、これも褒めてるんだけどね。
|12/25| 舞台コメント(0)TB(0)
 心身ともにもう一歩な感じです。何ちゅうかどことなく風邪っぽいって言うかね。そりゃ風邪だよ旦那。でも今は薬でもなんでもあるからホントに辛いって事はあんまりないんでしょうな。今年の半ばに昔治した歯の神経が腐って大変な思いをしたんですが、あの苦しみといったらなかった。一日でネをあげて歯医者に駆け込みましたよ、ええ。

 今ほど医療が発達していない時代にはこうした苦しみの恐怖というのは現代の我々が想像するよりも遥かに強いものだったのでしょう。それ故に針山地獄とか焦熱地獄とか極寒地獄という世界観にもある種のリアリティを伴った畏れが存在していたのではないかと思うのです。地獄の存在を全肯定するっていうのではなくて、悪いことをしたらずっと痛い思いをしなければいけない可能性があるというだけで自分の行動に対するブレーキになった事でしょう。キレる子供も含めて現代に不足しているものは畏れではないかと思うのであります。

んーとまあなんです。あんまり熱心ではなくなってきましたね、我ながら。まあぼちぼち書いていきますが、ペースダウンは必死という事で。

 年末に来てお金がありません。久しぶりに辛い日々を送っております。なぜこんなにお金が無いのかといえば借金でありますよ。しかもね、借りてるんじゃないン、貸してるン。多くの皆様の予想どうり弁士は儲かってしょうがないって仕事じゃありませんよ。やりたい事で生きるって事はそういう要素を孕んでいるんでそれはいいんです。あ、売れる気が無いってんじゃないんです。その辺の意識も今年は変化がありました。来年は少し頑張れそうです。

 えーとですな、それはともかく借金ですよ。そんな儲からない私が現在約20万くらい貸してるのね。一月暮らせるっちゅーねん。その金で。どうなってるちゅーねん。繰り返すけどね、借りてるんじゃないの貸してるの。何で貸した側が苦しい思いをしなきゃならんのだね。

 ホントに学びましたよ、金は貸すもんじゃない。

 イツイツマデニハカクジツニカエシマスカラ。還ってきた事がねえよ。

 とにかくね、それも含めて来年は頑張ろうと、そういう訳ですよ。考えてみればたかだか20万の金で苦しむ自分も情けないじゃありませんか。その分だけ稼げば良いのです。

 と、ちょっと前向きになったところでアデュー。
|12/19| もやもやコメント(0)TB(0)
 文化というのは便利な言葉です。この言葉を使えば多くのことが正当化できてしまいます。たとえそれがインモラルなものであっても「文化なんです」と言えば聞いた側は不快ながらも了承せざるを得ません。

 不倫は文化だ

 見事な命題ではありませんか。世界各国、不倫の無い場所はありますまい。これを言ってのけた某氏のセンスは素晴らしいものがありますね。我々の大先輩大蔵貢による「妾の理論」に匹敵する男女感と言わねばなりません。

 人殺しは文化だ、と言われて否定できるでしょうか?盗みは文化だ、暴行は文化だ、差別は文化だ、盗作は文化だ、どれもが通常文化だと思っているものの中に巧妙に潜んでいるものばかりで御座います。

 文化を守る為に○○をすべきだ。文化を守る為に○○を言っておきたい。

 これらも非常によく聞く言葉です。しかし冷静になってみると極めて私的な利潤を守る為に文化が利用されているパターンが極めて多い。お金を儲ける側の理論によって利益と文化がすり返られるんですな。

 勿論、映画にしろ美術品にしろ制作にも保存にもお金がかかります。「金儲けの出来ない芸術なんて存在しない」とは誰の言葉でありましたか…。そういう考えもあります。だからお金儲けを否定しないのでありますが、にしてもどうも文化を上手い事利用している人が多すぎる気がする。少なくともメディアからの取材時だけ口から出てくる「文化」は文化ではありますまい。

 旧聞に属しますが、数ヶ月前に黒澤明監督の廉価DVDが販売差し止めを言い渡されました。その後の動向は聞いてませんが、その時点では判決が出た訳です。もろもろ調べますと映画会社側の弁護士さんが非常に丁寧な仕事をしたらしいのが伝わってきます。著作権法のそもそもの成り立ちにまで遡っての主張は見事な説得力を有しています。もっとも気になるのは映画が監督の著作物であると認定された時に監督のご遺族の方々が「え?!ウチのお父さんの著作物なのに一円も貰ってない」みたいな話になったらどうするのかという事です。『ローマの休日』で著作権を監督の物としなかったのはそういう理屈からだと思います。日本人はまだまだ権利の取り扱いに弱いですから、そんな主張はしてこないだろうと思っているのか何なのか。

 ま、そんな事は今自分が言いたい事とは関係が薄いのです。そもそもこうした著作権の問題がクローズアップされるのは文化の値段が幾らになるか、世間でも気になっているからに他なりません。日本の映像ソフト(音楽ソフトもですが)は高い事で有名です。日本のソフトなのに海外で発売された物を逆輸入した方が安くあがることは珍しくありません。あまつさえ逆輸入を妨げようとする制度もあり、それを文化の為と言っているのですから文化って何?との思いは益々加速します。黒澤作品と文化の値段に話を戻しますと、廉価DVDは1000円で買えた、対して東宝発売版は6300円で販売されていました。この差はどこから生じるのか?さらに普及版として東宝からは同一の作品が3990円で発売されました。この差もまた不可解です。

 黒澤明作品の適価は幾らであるのか?

 文化に値段を付けるのは責任が伴います。その辺を考慮した上で値段設定をして頂きたいと思うのです。しかしながら普及版に付いていた帯に「お求めやすくなりました」とか何とか書いてありましたが、文化云々は別にして庶民の感覚とは明らかなズレを感じます。幾度となく再映、放映、販売されてきたコンテンツが新作よりも高い値段で売られて「お求めやすく」はないだろうと思うのですがいかがでしょう?

 文化なんて本当は軽々しく口にする言葉ではないのかも知れません。
|12/07| もやもやコメント(2)TB(0)
 このところ、更新が滞りがちでありまして。というのもブログより面白いおもちゃを見つけたんですね。

 子供みてぇだ、俺。
 
 ん~なんてぇかね、色んな価値観が変わりつつあるというか、上手く言えないのではないのです、言わないだけなのです。なにがどうして価値観が変化しつつあるかということは説明も出来るんだけども、それを説明してしまえば変化を楽しんでいる自分が、変化に対してドライになってしまいそうでイヤなんですな。

 このブログは自分の雑感を言語化するのが主な目的です。だから共感できる人はそうはいません。そんな事は解っているのです。ゼロではないのがミソなんですがね。信じられないかもしれませんが共感の意を伝えてくれる人もいるのです。

 けれども現在起きている変化はそれをやったら(言語化したら)つまんないんです。なぜかというと、この変化が極めて俗なものだからで、高等遊民であるところの私にとって常に内在しながら表面化してこなかった感覚の現出だからなんです。と、いうふうに変化そのものではなく、その外壁を言語化するのは相変わらず極めて楽しい作業であることが、イザ書いてみると解る訳です。

 さ、今日からフィルムセンター通いだ。
|12/04| もやもやコメント(0)TB(0)