さて
尊敬する相手の書いた文章は情報だが、憎む相手の書いた文章は記号である、とはかのパスカルの言葉ではないのですが、つくづくそうだなァと思ってしまうのです。
ブログが出来て誰もが自分の情報や考えを世間に提示できるようになりました。アタシは興味本位で結構色んな方のを読みます。ここだけの話ですが同業者が書いてるのはなるべく読むようにはしてます。なるべくって事はつまり意識して読まないと読む気がしないという事でもあるのですが。
ムググ、いかんね。書く気が出てきたと思ったら、すぐにこういう事を言い出すのが良くない所です。
自己内省はさておき、冒頭の感覚に戻りますが、ブログで極めて多く、商業ベースで少ない文章の筆頭に挙げられるのが「今日こんな事がありました~~~。終わり」っていうタイプの文章です。このテの文章って何にも無いんですよ。だから読み手と書き手の関係性が重要になるんですね。僕が好きな人が「今日こんな事がありました~~~。終わり」みたいな事を書いていたら、きっと僕は「うんうん、そうか、良かったね」とそこそこ笑顔になるのです。しかし嫌いな人が書いていたら「だからどうしたんだよ。知ったこっちゃねぇよ。馬鹿ぢゃなかろか」と蔑みの笑みを浮かべるのです。
ホラ、ここまで読んだあなたの現在の反応がつまりそれです。
身勝手極まりない意識ですが、誰しも概ねそうだと思います。むしろ何でも前向き、善意で解釈というようなポーズをとっているのに内心は・・・ってな方に比べれば遥かに僕のほうが朴訥で単純な意識の持ち主と言えるんじゃないかと思うのです。
とまあ、そんなゴタクは前菜でして、実は他人の文章で衝撃があったのですよ。それは好きでも嫌いでもない人です。全く接点が無い訳じゃない、といって言葉を交わしたのは挨拶程度という、早い話がほぼ他人。この人もブログをやってまして、それを読んだのです。まず大きく食い物の写真が載ってまして、文章は「今日のランチ。うまうま~」とかなんとか。細かい部分は違うかもわかりませんが、基本線はそれだけ。よくあるっちゃある典型的なブログの文章ですが、改めて突きつけられると困ります。この人が何を発信したいのかが全く読み取れない。バックスバニーなみに言いたくなります。ドシタモンダローと。
そうなんですね、嫌いな人の書いた文章は嫌いという強い認識がありますから、結局何か情報を掴み取ろうとしてしまうものなんですね。それが正の情報か負の情報かは違いますが。
私がここで文章量多めなのは単純に書くという行為が目的な為もありますが、根底には量を費やさないと感覚が伝わらないのではないかという不安があるのだと思います。情報を出来るだけ開示する、それが理解の一助となるだろうと及び腰で思っている訳です。ところが「今日のランチ。うまうま~」の方はそれだけで伝わる自信があるから、それだけの文章で世に放てるのです。私には到底出来ない事です。羨ましいと申してもよい。太宰治が兄に「小説が悪いとは言わん。ただ俺にはまどろっこしいのだ。一つ事を言うのに何枚も費やすのが」という様な事を言われたときに太宰返して「確かにそうです。一言で信じさせることが出来るならば」と答えたのだそうです。こんなやりとりを高校時代に読んで深い感銘を受けてしまうこと自体、私と学校環境との断絶を物語っています。
もしかしたら多くの書き手も「今日のランチ。うまうま~」と言い放ってみたいのではないだろうかと、フト思ったという事をこれだけの文章にしてしまうのはきっと良くない事なのではないかと思ったりもするのです。