でも、それって不景気か?不景気って食うや食わずやの人が町にあふれる状態じゃないのか?
新車がそんなに売れる不景気ってキモチワルイよね。
さて本題。何だよ、その2って。正気か?
と、思ったお友達、あなたは正しい。
でも書いちゃうけどね。
前回は愛猫クロの死を勢いに任せて、ドキュメントっぽく書いてみたのですが、結果は御覧の通り、主観的・感傷的な読むに耐えない愚痴になってしまったのでした。
そこんとこいくと、私が最も好きな漫画家さん、須藤真澄先生の『長い長いさんぽ』はやはりケッサクなのだと、よくぞあれだけ猫の死を作品化出来たものだと畏敬の念すら抱くのです。
須藤作品の代表作であります「ゆず」シリーズの魅力は須藤先生の常軌を逸したゆずに対する愛情と、そんな常軌を逸した自分を見つめる極めてドライな目線のコントラストである事は言うまでもありませんし、それか頗るつきに高純度で作品になったのが『長い長いさんぽ』である事も言うまでもなく、あえて指摘する行為は小学校の授業中に「先生、トイレに行きたいです」と手を挙げて、大きな声で言うくらい恥ずかしいのですが、話の展開上触れない訳にいかないのです。というのも、須藤先生のドン引きする程の溺愛ぶりの象徴的な行為が、火葬した後のゆずの骨や灰に対する執着という形で描かれているからであり、私には死体に対する執着が無かったと言いたいばっかりに対極的な須藤作品にご登場願った次第だからなのですね。
ここんとこの文章未整理でわけ分かんないね。
早い話が、私にとってクロの死体は物でしかなかった、ということ。
実はこの感覚は、そね1で書こうとして一度止めたのです。なぜかというと、物でしかない死体なら、平気な顔で保健所に処分してもらえばいいものを、やっぱり忍びなくて埋めたからなんですね。
物である、などとうそぶいて、結局は高踏ぶっているだけなのだ貴様は、というような事を考えてしまったのです。こうなっては死体=物とは言う資格はない、と。
でも昼過ぎに違う考えに行き着いたのですよ。物に愛着を持って何がおかしい、ってね。
おかしかないんですよ、大好きなおもちゃが壊れたとして、投げ捨てられるか?俺は出来ん。
物欲と未練の塊ですからね、わたし。
だから、未練がある内は垂れ流してみようと思うのです。
繰り返します、自分の為に。
死体は物です。生き物から生が失われれば物しか残らないのです。漢字はよくできてますね。
その物には未練が詰まっています。だから泣くのです。
クロの事をずっと忘れないとは言いません。私は物忘れが尋常ではありませんから。きっとすぐに忘れちまうのでしょう。薄情な飼い主です。 でも、たまに思い出すからそれで許してな、と思います。