今月のゲストは能楽師の佐久間二郎さん。
アタシは演劇学科でしたでしょ。なので能には思い入れというか、畏敬の念というか、色々あるのですよ。
なにしろコチラ(活弁)は100年ちょっとしか歴史が無いのですが、アチラ(能)は室町時代あたりから存在してるってんですからこれはケタが違いますやね。それだけの歴史を生き抜いてきた事は、純粋に素晴らしいの一点であります。
現代の娯楽というのは装飾が非常に多い。現代がそれだけ刺激に慣れきってしまったから仕方の無い事ではあります。けれど、というかだからこそ、能のシンプルさは脅威的でなのです。これが成立している凄さを何と表現したら良いものか。
お話を伺った佐久間さんは能楽師の家柄ではありません。
ここんところが割と重要でしてね、芸を生きる糧にするにあたって血はさほどの問題ではないと思うのです。氏より育ちという言葉がありますが、まさにその通り。
佐久間さんは家柄こそ能楽師ではありませんが、小学校1年生の時には面打ちになりたいと思い、2年生で鼓方になりたいと思い、三年生で能楽師になりたいと思った方です。なんつーかアレですよ、能のサイボーグっていうか、筋金入りっていうか、つまり物凄い方ですよ。私は小学校3年生の時に何かになりたいと強く思ってはいなかったはずです。オソレイリマシタ。
藝能往來で様々な方と腰を据えてお話をさせて頂き、またそれ以外の場でも色々な人と話をしていて感じた事がひとつあります。それは、ちゃんとやっている人は「私は運が良かった」という確立が高いんですね。そして彼らの言う「運」とはぼんやりと突っ立っていて手に入れた物ではなくて、常に幸運を待ち構えて、運が巡ってきた時にそれを逃さない為の努力をしているが故に掴み取った「運」なのです。
芸事の世界で生きてゆくためには運と、それを我が物にするセンスが絶対に必要なのです。よく言われるように幸運の女神には後ろ髪はない、通り過ぎた後では手遅れだ、という事です。
つまり「運が良かった」という言葉の裏には、相応の努力をしてきたのだ、という自負が隠れているのです。
面白いもので藝能往來のインタビューに限らず、私の交友範囲全体で考えても上記の現象は起こります。それから私が「この人は駄目だなぁ」と感じる人にもある種の共通点があるのです。
駄目な人達は「運命」を口にします。
ここには本人の努力はありませんね。ただ天から幸運が降って沸くのを待っているし姿勢しか感じられません。でも傾向としてあるのですよ、これ。
勿論、私の判断です。そもそも私がモノになっていないのに、そんな事を判断する資格はありゃしないのですが、感じてしまったのは事実なので書いた次第。
それから能は役になりきらないんだそうです。どうしてなりきらないかは本文中に書いてありますので、読んで頂きたい。演技に悩んでいる役者さんや、演技とはなりきる事だと疑いなく思っている演出家諸氏には見て欲しいと思います。少なくとも、なりきる演技って危険なのだという事は把握しておくべきでしょう。役と一心同体になれ、お前の私生活に役が侵入しても知ったこっちゃない、では今の世の中通じないと思うのです。
ほら、パソコンも色んなソフトをインストールしたりしてると段々動作が不安定になったり、重くなったりするじゃないですか。役者にもそれが言えるのですよ。色んな役を詰め込むだけ詰め込んで、そのまま放置するから役者の心に役が干渉しだすんですな。一般に天才肌と言われる役者や芸人に奇行が多いのも、その辺が影響しているのではないかと思うのです。
何だかんだ書いております藝能往來はちょいとお休みを頂きまして、秋頃のリニューアルを予定しております。
ここだけの話ですがね、かれこれ2年半は何がしかの形で連載記事を持ってたのよ、私。それが途切れました。寂しい。誰か文筆のお仕事おくれよ。口にノリせにゃならんのだよ。