目覚めてみればここはハーバード。そう、日本人ですら知っているハーバード。僕が受験をしても一生受からないであろうハーバード。
ハーバードに限らず、こっちに来てから呼んでいただいた大学、おおむねそうでしょうけどね。というか今、どこかの大学の入試を受けても受かる場所なんて無い気がするよ。そう思うと退化してるよ。たまに学生に戻りたい時がありますね。そしたら今度は普通に就職して、普通の生活をするんだ。普通を指す言葉が普通しか出てこないんだ。つまり普通を想定できていないんだ。
本日は以前から会いたかった方々と会えるのも楽しみのひとつでした。
まずは昼食、ハーバードの皆さんと、そしてわざわざNYから無声映画伴奏者の
松村牧亜さんが来てくださいました。松村さんの演奏、僕はフィルムセンターで拝聴させて頂いた事があるんです。それからツイッター、フェイスブックではお付き合いがあり、本日ようやく直接出来るという次第。
MoMAの公式上映で演奏した日本人無声映画伴奏者は松村さんが初というんだからすごいじゃ御座いいませんか。
早速お昼ご飯に向かいますが、さすがボストンですな。食べ物屋さんも豊富。バーガーも当然ありますし、アジア系もヨーロッパ系もお好み次第。昨日はタイと言いながらベトナムに入っちゃったから、今日はタイにしようか、てな具合にお店になだれ込みますですよ。

左・アレックスさんの背中 右・松村牧亜さんの背中
夜と昼のハーバードを歩いて感じたのは、学生がオサレ。
ミシガンとかカンザスは素朴なんですよ。インディアナは牧歌的。対してハーバードはもっとこう、慣れてる感じっていうのかね。面白いですね、雰囲気の違い。
あとねハーバードの院生さんが凄い事いってましたよ。「ハーバードって結局、オックスフォードの真似ですから」って。おいおいハーバードまで来てまだコンプレックスあるのかよ。もう良いだろう。もっと自信持てよ。俺なんか日本大学芸術学部演劇学科理評コースだぜ。理評コースってのは理論評論を詰めた言葉で、しかも今は無くなっちゃたコースだぜ。それでもまあ何とか俺は生きてるぜ。良い学校ですけどね、ニチゲー。
お昼は無難に美味しゅう御座いました。
海外に限らず各地でお仕事をすると、現地の方が食事に連れて行って下さる機会が多いのね。当然、美味しい所に案内して下さいますよ。我々もそれが楽しみの部分がありますよ。特に安くて美味しいお店が良いですね。高くて美味しいお店も好きですが、土地の人が行く安くて美味しいお店が良いですね。
だから基本的に仕事先で不味い物にはそんなに当たりません。
でも以前、飛騨高山に行った時にハズレを引きました。実は高山はラーメン屋さんが多いんです。現地の方に聞いたら「どこでも大体美味しいですよ」と仰るので、適当に入ったんですよ。あそこは不味かった。後で聞いたら、数少ない外れだと言ってましたっけ。でもこうやって何年か経って言えるから結果的には当たりなのかもしれませんが。
お昼を食べたら今夜と明日の公演会場であるハーバードフィルムアーカイブさんにお邪魔しての会場下見で御座います。
ハーバードフィルムアーカイブってこんな所よ。


赤い壁に四角い枠が付いてるのが分かりますか?
枠に近寄ってみました このデザインが素敵 そんなこんなで日が暮れて、あっと言う間に公演時間がやってきてしまいました。
いまさらですが
告知サイト
受付 本日の演目は本ブログでしつこく言及しました『Shoes (毒流)』と『A Dog’s Life(チャップリンの犬の生活)』の二本立てです。ブルーバード映画とチャップリン、どちらも日本映画に多大な影響を与えた存在です。いうなれば上映作はアメリカ映画史の作品ですが、同時に日本映画史を考える上でも必須の作品といえる訳です。
しかもですよ『毒流』はやっとの事で届いたDVDは白黒版だったのが、なんと本番は染色版というサプライズ。はしゃいでるの俺だけ。
はしゃいでいるので、珍しく自分の写真 ピアノ生演奏はRobert Humphrevilleさんです。リハは本番前にちらっとやってお終い。あとは本番の出たとこ勝負。日本でもこういう事がほとんどですけれど、海外でこれをやる楽しみってあるんです。だって海外のミュージシャンは僕の日本語が分からないんです、つまり純粋に音(言葉)と音(音楽)のセッションになるんですね。それでちゃんとお客さんに届くパフォーマンスになった時の楽しみと言ったら、なかなか他では味わえません。
Robert Humphrevilleさん、さすがにフィルムアーカイブとお付き合いのある方ですね。素敵な演奏でした。
『A Dog’ Life』は、喜劇の上映はこうでなくちゃと思わされる笑いに次ぐ笑い。つまりこれって無声映画を構えずに見てるんですね。古い映画だから退屈なんだろうって先入観もない、名作だから伏し拝んで鑑賞させて頂かなければというリキみもない。あるのは目の前の映画を楽しんじゃおうとする素直な姿勢。そういう風に見られれば無声だからとか、トーキーだからとか、カラーだからとか、3Dだからとか、そういう形式から全てを決めつける愚を犯さずに済みますね。そういう人たちが封切館だけじゃなくてフィルムアーカイブの上映会に来ているってのが大事。とっても大事。
海外の無声映画伴奏者の方とお話しすると、大抵の方が「弁士の存在は知っていたけれど、共演するのは初めてだ」と、そして終演後には「楽しかった」と言って下さいます。後半はお世辞交じりでしょうけれど、少なくとも怒ってはいません。いないと思う。
終演後にはもう一人お目にかかりたかった方、オペラ訳詞家の三浦真弓さん。三浦さんはツイッターで何やら面白い人だと思ってフォローさせてい頂いていた方。ボストン在住だとは知っていたので、思い切ってナンパしたところ
ひょいひょいきたお忙しい中をいらして下さって感激でした。お土産にボストン名物のチャウダーまで頂いちゃって、こんなことなら練馬大根でも持ってくるべきだったと思いましたね。嘘です、思いませんでした。
チャンダーは二つ頂きました。気づいた時には一つ食べてしまっていたので、画像に残っているのはこちらだけ さらに2013年2月に某所で企画されている公演に為にJのSさんも来て下さって。
もちろん初めてお会いする多くのお客様にいらして頂いて、毎度の事ですが幸せな仕事をしていると実感しますね。
三浦さんで思い出しましたけどね、洋画の上映の時には字幕翻訳を自分でやる機会が最近多いんです。日本でも仲良くしている翻訳家の方がいてちょいちょい見に来て下さる。翻訳をお仕事にされている方の前で拙訳の台本で公演をする気まずさったら、もう、ね……。中国映画をやった時にも(これも自分で訳した)翻訳をされている方が見えて「誤訳があったのに、最終的につじつまが合ってたのが凄い」ってよく分かんない褒められ方をされた事があります。
ま、他人の台本じゃないからね。自己責任だからね。
でも自己責任で訳すからこそ、自由な作品解釈が可能でもあるんです。訳ってやってみると分かるけれど、単純に外国語力だけの問題じゃないのね。作品解釈力であり、アウトプットする日本語力が物凄く大切。逆に言えば他人の訳を使うと弁士にとって最も重要な作業の台本書きの骨の部分を他人に任せる事になっちゃうんです。でも自分で訳すときは、意味の分かんない文章が出てきたり、適切な訳語が見つからなかったら必死で考えて作品に踏み込まなきゃいけない。答えは作品の中にしかないから。
極力、弁士も自分で訳すべきなんでしょう。出来る範囲でね。
『Shoes』の邦題がどうして『毒流』なのかは全く不明だと以前書いたと思います。でも今回は自分なりに、なぜ『毒流』なのかを考えて台本に盛り込んでみました。こういう感覚って訳す作業の先にあるきがするんです。
『毒流』に僕がこだわる理由に、かの生駒雷遊先生が得意にされており、晩年の録音が今でも聞けるからだという事も以前書きました。その『毒流』の前説で晩年の雷遊先生は「生駒雷遊で御座います。二代目ではありません。弁士がこんなに生きておりますのに、無声映画という物が少なくなりました」と洒落混じりに仰っています。
この時期、まだ往年の弁士諸先輩方はかなりの数がご存命でしたが、肝心の無声映画がフィルムの所在が掴めない物が多く、今の様に家庭用ソフトも無いといった状況でサイレント映画の上映自体が、現在よりも(無声映画時代に近いにも関わらず)遥かに貴重でした。自分はまだ生きているのに、無声映画が上映できない。かつて一世を風靡した身にとってはさぞかし寂しかったでしょう。それ故にたとえ断片であっても自分の語りで浅草の観客を唸らせた『毒流』を再度説明出来る事は万感胸に迫るものがあったのではないかと思うのです。
そんな歴史的背景に想いを馳せながら『毒流』は生駒調で説明させて頂いたのでした。
ここに辿り着くまでに、かなり大変でしたがお陰様で楽しい夜となりました。
松村さん、三浦さん、Sさん、ボストン大学のS先生もご参加頂いての打ち上げも楽しゅう御座いました。
ハーバード・フィルム・アーカイブプログラム
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