このブログの存在を以前から知っている方ならご存知の様に、私は『カツベン!』に思いっきり関わっています。12月13日に公開して以来、少しでも空き時間があればツイッターを覗いて反応を見てしまう日々でありまして、感触としては多くの好評と若干の不評といった反応で、エンタメ作品としては絶賛一辺倒でないのは極めて健全な事なので良い傾向だなと思っております。ただ高良さんと森田さんを指導して、お二人の才能に舌を巻いた立場としては、あの二人を批判するコメントにはムカーっと来ますが、これは個人的な理由ですので仕方ないのです。
そもそも作品に深くかかわりすぎて、もはや冷静な批評など出来ない私としては、他人様が『カツベン!』にどんな感想をもっても、それにどうこう言える立場ではないのです。「面白かった」と言ってくださる方に感謝するのみです。
さて、とにかく何が何でもヒットして頂きたい、ヒットすれば私の人生が大きく前進するであろう『カツベン!』には多くの素晴らしい点が御座います。その中でも特筆すべきは活動写真=無声映画に対する幾つものオマージュでしょう。監督もインタビューで幾度も仰っていますが『カツベン!』には活動写真が持っていた動きの魅力が横溢しています。それは現代的なアクションとは又違ったものなので、ややとっつき辛い側面はあるかもしれませんが、映画史に関わる立場としてはやっぱり嬉しくなってしまうのです。
そしてもうひとつ重要なのは『カツベン!』は説明しすぎていない映画だという点も重要です。無声映画は音声が無いが故に映像のみで語る技術を追求しました。映像でいかに語るか、という点において無声映画時代はむしろ現代よりも多くの試行錯誤がなされていたといっても間違いではありません。『カツベン!』もまた映像で語る場面が多く存在します。過剰に台詞で説明しない映像による語り口こそ、これぞ映画、というべき演出ですが一方でぼんやりしていると大事な部分を見逃してしまう可能性もあるのは事実です。もちろん『カツベン!』は娯楽作ですので緊張しながら見る必要はないのですが、軽やかな演出故に楽しい仕掛けを見逃してしまう可能性もあるかもしれません。
と、ここまですでに余分な文字数を費やしてしまいましたが、実はこのブログで解説したいのは、作品の根幹をなす二つの無声映画、すなわち『ジゴマ』と『雄呂血』についてなのです。この二作品について詳しく知らなくても『カツベン!』は十分に楽しめる映画ですが、知っていれば興味は遥かに増すのは間違いありません。おそらくもっと作品尺に余裕のあり、不特定多数の視聴者が見るテレビドラマならば『ジゴマ』と『雄呂血』がどんな作品か詳しく説明する場面が用意されたでしょうが『カツベン!』はそこを軽やかに描写します。
そこで大変野暮な事ですが、『ジゴマ』と『雄呂血』についてここで解説をする事にしました。
ネタバレはないようにしたいですが、私がネタバレをまったく気にしない性格なので、もしかしたら「がっつりネタバレてるじゃねえか」と思われる内容になっていると思います。ここから先は自己責任でお読みくださいませ。
きっと長くなりますので、その点もご容赦くださいませ。
読んでみても良いかなという方は下までスクロールして下さいまし。
さて、よろしいですね。
まず作品冒頭から触れて参りましょう。
予告編の冒頭で「いっち、にーの、さんや!」と怒鳴っているのは日本映画の父と呼ばれる牧野省三(山本耕史)です。日本映画史上初の職業監督、息子にこれまた映画監督のマキノ雅弘、孫に俳優の長門裕之と津川雅彦兄弟、そして沖縄アクターズスクール主宰のマキノ正幸等々、現代の日本芸能史を語る上でも欠くことの出来ない人物です。

牧野省三
そしてその省三が取っている作品の主演が日本映画初のスター俳優で「目玉の松ちゃん」の綽名で親しまれた尾上松之助(嘉島典俊)です。松之助は1908年に映画俳優デビュー、1926年に亡くなるまでの18年間で約1000本の作品に主演俳優として出演した日本のみならず世界映画史をみても空前絶後の映画スターです。18年で1000本という事は実に1週間に14作品を越えるペースで作品を撮っていた計算になりますから、松之助の人気、すなわち新作を求める声がいかに強い物であったか分かります。

尾上松之助(右下)
この撮影のシーンで、出演者が台詞ではなく「いろはにほへと」と言っていますが、これは俳優が台詞を覚える必要のない無声映画時代に、実際こうして適当に口を動かし、劇場で弁士が物語に沿って台詞を付けていたという事実を元にしたシーンです。もちろん全ての作品がこうして「いろはにほへと」であったわけではなく、物語に沿った言葉を役者が何となく言って撮影する状況の方がむしろ多かったはずですが、まだ様々なルールが定まっていない黎明期の日本映画では「いろはにほへと」も大いに用いられた訳です。
ちなみに日本は映画史でも特殊な国でした。無声映画時代にアジア圏で日本ほど映画産業が盛んだった国はありません。多くの国では映画を輸入に頼り、自国で撮ったとしても製作本数も撮影水準も決して高い物とは言えない中で、日本のみがヨーロッパの主要国やアメリカと肩を並べるだけの本数と品質をもった映画を生産しました。日本にはそれだけの経済基盤があった事が第一の理由ですが、加えて映画を独自の娯楽へと昇華する弁士の存在があった事、そして松之助の様な映画スターが早々に誕生した事も見逃せない理由です。
また撮影のシーンに続く活動写真館で『怪猫伝』という無声映画が上映され、複数の弁士がまるで声優の様に台詞を付けていますが、これも大正中ごろまで実際に活動写真館で日本映画を上映する際に行われていた光景で、専門的には「声色掛け合い」と言います。『怪猫伝』は尾上松之助の主演作『怪鼠伝』のパロディーであるのも無声映画オマージュとして見逃せません。
ちなみに声色掛け合いをやっている弁士として出演しているは私こと片岡一郎、そして坂本頼光、山崎バニラ、山内菜々子の現役弁士に加え子役の森田拳です。声色掛け合いを再現した映画はこれまでに一本もありませんので、実はこの場面だけで『カツベン!』は後世まで繰り返し上映されるのが決まったようなものなのです。
すなわち『カツベン!』は冒頭数分で日本映画が他国とは違う独自性をもった文化であった事実を短時間で極めてスマートに見せていると言えるのです。
そして我々の声色掛け合いの後に出てくるのが山岡秋声(永瀬正敏)です。山岡は「七つの声」を持ち、本来なら何人もの弁士が必要な声色掛け合いを、一人の声でこなせてしまう圧倒的な技量を持つ弁士として登場します。歴史上にも山岡の様に七つの声を持つ弁士は存在していました。土屋松濤という弁士が『カツベン!』冒頭の山岡のモデルになっていますが、土屋と山岡の違う点は、土屋は全く学が無く文字を読むことが出来ない弁士でしたが、山岡は知的な存在として登場します。

土屋松濤
土屋は学問こそなかったものの、芸は良く、また芸人らしい愛嬌もあり自らの毛が薄いのをネタにして「土屋の禿」と名乗り観客に愛されていました。
そんな活動写真と弁士に魅せられるのが子供時代の俊太郎と梅子です。
特に弁士に夢中の俊太郎は弁士の真似をして『ジゴマ』を梅子に語って聞かせます。
『ジゴマ』(Zigomar)は新聞小説を原作として1911年にフランスで製作された映画で名探偵ポーリンと、変装を得意とする怪盗ジゴマの追いつ追われつを描いたクライムサスペンス映画の原点にあたる作品です。探偵と怪盗の丁々発止を主軸にしているとはいえ、実際に物語を牽引しているのはジゴマが各地で巻き起こす犯罪騒動の魅力でした。現代の目で見ればどうという事のない描写ですが、当時の観客には目の前でリアルに繰り広げられる犯罪描写は大変に刺激的でした。特に弁士の語りよって興奮を煽る事に成功した日本では圧倒的なブームが巻き起こり、映画を見た人が『ジゴマ』の手口をまねて犯罪行為に到る物が現れ、子供がジゴマごっこをするなど社会問題となり、日本で映画が検閲を受けるきっかけとなりました。

ジゴマを演ずるアレクサンドル・アルキリエール
つまり日本で、単なる娯楽ではなく社会的影響力を持つメディアとして映画が認識される契機となったが『ジゴマ』であり、少年時代の俊太郎が得意にしていたのが犯罪映画『ジゴマ』の口上であったのです。いつか弁士になりたいと願う俊太郎が成長してどんな境遇で弁士になるかは映画をご覧頂くとして、実に示唆的な映画の口上を得意にしていた訳です。
これは全くの余談ですが、俊太郎が物語の重要な小道具であるキャラメルを失敬しようとする駄菓子屋の店名は「壽々喜多屋(すすきたや)」です。そしてその隣の店は「山中商店」です。壽々喜多屋が明確なオマージュであるのは後述しますが、山中も日本映画史では忘れてはいけない名前です。天才監督と讃えられ、この人物が戦病死しなければ戦後日本映画の在り方が変わっていただろうとすら言われる山中貞雄がここではどうしても思い出されます。
『カツベン!』では青年になった俊太郎(成田凌)が芸を通じて個を獲得する成長が主線です。
物語中盤で、「人まね」ではない「自分だけの」芸に開眼した俊太郎がお色気を多分に含んだ芸で人気を獲得します。
これは後年、新東宝の社長となって良くも悪くも世間を騒がせた弁士の大蔵貢のエピソードに由来しています。
大蔵はどんな映画にも色っぽい説明をしてしまう事で有名でした。例えば母親と娘が会話している場面になると、「この娘は困った子だよ、男と見ると色目を使って」とか、女性が困った顔をしていると「私、なんだかあの場所が痒くて仕方ありませんの」といった具合でした。しかもそんな大蔵の芸を楽しんでいたのは女性が多かったと言います。

『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(1962)撮影時の大蔵貢(左端)
『カツベン!』は実際にあった弁士のエピソードも巧みに取り込んでいます。
内藤四郎(森田甘路)は英語を使う嫌味な弁士ですが、彼のモデルになったのは内藤紫漣という弁士で、内藤紫漣は弁士になる前は税関吏をやっており、英語はお手の物でスクリーンに映し出される英語字幕を原文でまず音読してから日本語訳を語るという嫌味な芸で売り出しました。また夏の暑い時期に弁士台で下半身が隠れて見えないのを良い事に、舞台上にも関わらずズボンを脱いで語った弁士のエピソードも残っており、内藤の半裸になる描写はそれを誇張したものです。
茂木貴之(高良健吾)は美男で芸は良いものの女癖と性格の悪い弁士ですが、こうした色悪弁士は当時多く存在しており、各地で婦女暴行事件が起こり、『ジゴマ』と同様に社会問題化、弁士になる為の試験制度が1921年に設けられました。
さらに山岡秋声が劇中で吐き出す「映画は弁士が無くとも存在すすが、弁士は映画が無ければ存在できない。それが虚しい」という苦悩は活動弁士の歴史上最も重要な人物である徳川夢声の苦悩を流用したものです。つまり山岡は土屋松濤と徳川夢声、二人のトップ弁士の人格と芸を反映した存在なのです。徳川夢声=山岡秋声の苦悩の行く末がどうなるか、現代に生きる我々は知っています。やがて訪れるトーキーによって映画無くしては存在できない弁士は、映画故に職を追われてしまうのです。
話を戻しましょう。
お色気説明で大喜びする観客の中に一人の青年が居ます。
彼は終演後に俊太郎と訪ね、つまらない映画も語りの力で面白くしてしまう芸を称賛しつつ「自分の作品ではご遠慮願いたい」と笑顔で語ります。この青年は二川文太郎(池松壮亮)という映画監督です。二川はこの時、阪東妻三郎主演の『無頼漢』という作品を準備中でした。『無頼漢』は後に『雄呂血』を改題されて公開される実在の映画で、フィルムが現存している為に現在でも鑑賞が可能な作品です。

二川文太郎
『雄呂血』は日本映画史上で極めて重要な作品です。
冒頭で登場した尾上松之助は圧倒的な人気を博したものの、彼の出演する作品ではクローズアップやカットバックといった映画的技法をほとんど用いず、舞台劇をそのまま見せるような撮影が主体でした。映画を歌舞伎よりも安価で見られる代替娯楽として見ていた観客にはそれでも良かったのですが、欧米の映画に範を求める映画人や観客にとって、尾上松之助の作品は古臭い日本映画の象徴と見なされるようになってゆきます。
ここに現れたのが阪東妻三郎でした。歌舞伎俳優を志していた妻三郎でしたが、家柄がないと出世の見込めない歌舞伎の世界に限界を感じ映画界へ飛び込みます。いずれスターになるのだと決意をしていた妻三郎は端役として中途半端に目立つことを好まず、大勢の捕り方を演ずるときは他の役者に隠れるようにして出演をしていたと言われます。しかし天性のスター性と、この時代にしては長身であった妻三郎はどんな扮装をしても目立ってしまいました。妻三郎の出世の糸口となったのが『火の車お萬』という作品でした。この作品でも大きな役ではありませんでしたが、「あいつが居ると目立って仕方がないから役を付けてしまえ」という事になり端役から役付の昇格、スターへの道を歩み始めます。
『火の車お萬』と聞けば『カツベン!』を見た方はピンとくるでしょう。茂木の十八番にして松子の出演作、そして俊太郎が「自分の芸」を見せて観客(劇中の観客も、客席に座る我々現実の観客も)を感動させる作品が『火車お千』です。俊太郎が本物の芸を見せる重要な場面で上映される『火車お千』は阪東妻三郎が世に出るきっかけとなった『火の車お萬』がモチーフとなっています。ここにも映画史的しかけがしてあるのですね。
『火の車お萬』で出世の糸口を掴んだ阪東妻三郎には、もっと新しい映画を作りたいという野望がありました。その夢を語り合った仲間が二川文太郎や、脚本家の寿々喜多呂九平(すすきたろくへい)でした。前述の駄菓子屋は彼の名前を元にしているのは明らかです。妻三郎は1925年に独立し個人プロダクションを立ち上げます。ここで二川の監督、寿々喜多の脚本で撮影したのが『無頼漢』改め『雄呂血』でした。
松之助の作品は主人公が講談や立川文庫を元にした英雄豪傑ものが中心で、娯楽作としては優れていたとしても、若者が共感をする様な苦悩とは無縁の物語が殆どした。しかし妻三郎の主演作は彼自身の憂いを含んだ表情も相まって、同時代の観客が共感できるような恋や貧苦といった心情を鮮やかに描く事に成功しました。さらに妻三郎は、松之助が得意とする歌舞伎的な立ち廻りではなく、新国劇の澤田正二郎に端を発する、実際に人間が舞台上で斬り合っているのではないかと錯覚するような殺陣を取り入れ、映像で見る剣戟の進歩に大きく寄与します。
苦悩に追い詰められた若者の姿と、現実味溢れる殺陣が融合し、映画史に不動の地位を築いたのが『雄呂血』なのです。
物語終盤、駅で俊太郎を待つ梅子に二川が声をかける場面があります。ここで二川が「この作品に出て見ないか」と差し出す脚本には「無頼漢」と大きく書いてあります。そう、『カツベン!』は『雄呂血』の前日譚でもあるのです。

雄呂血
また寄り道をします。
俊太郎は青木館に雇ってもらう際に、名前を問われとっさに「国定です」と名乗ってしまいます。
ではなぜ国定なのか。物語上では、梅子との思い出がある『日光円蔵と国定忠治』という映画のチラシを俊太郎はずっと大切に持っているから、と了解されます。しかし日本映画史上では国定忠治は特別に重要な存在です。さきほど、阪東妻三郎は新国劇の殺陣を取り入れたと書きました。この新国劇の創始者、澤田正二郎最大の当たり役が『国定忠治』なのです。もとは新劇の俳優であった澤田は劇団内の諍いから独自に新国劇を組織しましたが、当初は興行もうまく行かず開山寸前まで追い込まれてしまいます。そんな澤田の新国劇が爆発的に人気を得るきっかけとなった演目のひとつがリアルな立ち廻りを用いた『国定忠治』でした。新国劇の影響は映画にまで及んだのは既に述べた通りです。しかも澤田正二郎の『国定忠治』は牧野省三の監督により映画化されます。さらに新国劇に在籍していたのが、後に阪東妻三郎と並び称される大スターとなる大河内傳次郎でした。大河内の主演作で日本映画史上最高傑作のひとつと言われるのが、伊藤大輔監督の『忠次旅日記』という国定忠治(忠次)を主人公とした三部作の映画です。
俊太郎が名乗る「国定」は無声映画史を貫く国定忠治という存在を前提にしているのです。

国定忠治を演ずる澤田正二郎

忠次旅日記
物語のラスト付近まで話を進めましょう。
俊太郎は再び『ジゴマ』を語ります。少年時代と同じように映像のない空間で、頭の中に映画を思い浮かべながら。
この場面は俊太郎を演じる成田凌さんの、まさに芸を見せる場面です。
しかし、ここで俊太郎が語る『ジゴマ』は実際の『ジゴマ』とは異なる物語です。
1911年のフランス映画『ジゴマ』は悪漢ジゴマがパリを騒がせる物語で、ジゴマには慈悲心のような物はありません。
観客はジゴマの悪事をフィクションとして楽しみこそすれ、ジゴマの心理に共感する事はありません。それゆえ本来の『ジゴマ』ではジゴマは純粋な悪人としてあえない最期を遂げます。しかし俊太郎が語る『ジゴマ』は愛ゆえに真心に立ち返り、魂を浄化されてこの世を去ってゆきます。そしてその場面を語る俊太郎は「悪人と称さるるもの、必ずしも悪人のみにあらず。また善人と称せらるるもの、善人のみにあらず」と語ります。(※正確に文字お越しをしている訳ではありませんので、ちょっと違うかもしれません)。
この言葉はどこから来たのでしょうか。
次の画像を御覧下さい。

これは『雄呂血』の冒頭に出てくる字幕で、作品のテーマをそのまま書いています。
そう、『カツベン!』ラストの『ジゴマ』は『雄呂血』なのです。
といっても俊太郎が『雄呂血』を見た上で『ジゴマ』の筋を替えて喋っているのではありません。
俊太郎が少年時代の思い出と共に語る『ジゴマ』はいつしかジゴマの改心へと彼の心の中で移り変わります。
皮肉な事に実際の国定忠治は庶民の為に義刃を振るう様なヒーローではなく、手に負えないやくざ者であったと言いまます。しかし講談等では義賊で、『カツベン!』劇中でも「義理人情にあつい任侠の男」として国定忠治は登場します。無論、俊太郎が想起する国定忠治は後者の英雄的国定忠治です。
かくしてジゴマは国定忠治=国定天声=俊太郎というフィルターを通して善心を獲得し、それを語る俊太郎の口上は『雄呂血』のテーマと同一化します。俊太郎と梅子は別れ別れになったのではなく『雄呂血』を通じて和合するのです。
またまた余談です。俊太郎が収監される刑務所は「帰山刑務所」です。帰山も日本映画史を学ぶ者には避けて通れない名前です。1918年、純映画劇運動という映像理論が映画界に大きな衝撃をもたらします。純映画劇運動とは簡単に言うと「映画は映画であり、他の芸術ではない。それがために映画は音楽やまして弁士の声などの補助をもって理解されるようなものであってはらなない」とする考え方です。映画が映画だけで理解される事が理想とする、この運動はまさに『カツベン!』の時代と同時期に起こった考え方です。そんな純映画劇運動を提唱、牽引したのが帰山教正という人物でした。つまり俊太郎は弁士不要論者の急先鋒の名を冠した刑務所で罪を償うのです。ここも何と見事な演出でしょうか。
それから賛否が分かれる最後の追いかけっこ。ここも実に活動写真的な場面です。テンポが緩やかだから活動写真的というのではありません。実を言うと、喜劇映画のギャグのテンポは映画が音声を得る事で時間軸の制約が大きくなり緩やかになりました。無声映画時代のギャグはかなりスピーディーな物が多いのですが、そこにリアルな音声が付くと不自然さが増してしまうのです。トーキーが殺したのは弁士よりも、むしろスラップスティックギャグの数々であったのではないかと個人的には思う程です。ではなにhが活動写真的か。それは乗り物です。映画は近代技術の産物であり、それは乗り物の発達と軌を一にします。もっといえば均一に回転体を動かす技術(車輪や映写機の歯車)は近代技術の象徴ともいえるものですので、活動写真と乗り物の愛称は極めて良いのです。実例は枚挙に暇がないのでクドクドとは挙げませんが、代表手な作品の一つがバスター・キートンの『荒武者キートン(Our Hospitality)』でしょう。
そして乗り物と活動写真の関係性で忘れてはいけないのが機関車です。
映画の父、リュミエール兄弟が撮影した『ラ・シオタ駅への列車の到着(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)』こそ、映画と列車の幸せな出会いの証明です。
映画という未知の文化に触れた1890年代の人々はこの映像を見て、客席に列車が突っ込んでくると錯覚し逃げ出したという伝説的なエピソードがあります。このフィルムは人類に映画の衝撃を覚えさせた初の作品なのです。となれば一旦は女優の道を諦めた梅子が再度、映画女優へと挑む際に駅に到着している列車に乗り込んで旅立ってゆくのは映画史的必然と言えるのです。
さて、いよいよラストです。実は『雄呂血』はフィルムのみならず、オリジナルの脚本も残っています。その表紙にはもちろん『無頼漢』と書いてあり、エンドロールの最初に本物の『無頼漢』の脚本が映し出され、そこから本物の『雄呂血』の映像へと移り変わってゆくのです。すなわち『カツベン!』というフィクションから『雄呂血』を通過して現実へと誘導する仕組みがなされているのです。
あちらこちらに飛んで、分り辛い解説になってしまいましたが『カツベン!』が牧野省三&尾上松之助、『ジゴマ』、『雄呂血』、国定忠治といった日本無声映画史の重要なポイントをいかに的確に押さえているか、その理解の一助になれば良いなと思って書いてみました。
もっと詳しく、ネタバレ全開で解説しろという方は、個人的に話しかけて下さい。