ヘイヘイ、みんなァ元気かい?俺か?俺はいつもどーりお疲れ気味だゼ。今日は久しぶりの弁士列伝だ。サボッてた訳ぢゃないゼ。でも久しぶりの更新だもんな。そう思われても仕方ねぇよ。このブログの存在価値なんて弁士列伝だけだと俺も思ってるんだ。君もかい?気が合うな。今日はよ、上田布袋軒をフィーチャーするんだ、知ってるだろ?知らないだって!なんてこったジーザス!ぢゃあ上田布袋軒について書いてやるから勉強しろよ。何だい、そこのガール。そうか君は知ってるか。ハハハッハ、別に自慢できる事ぢゃないんだゼ。当たり前のことさ。でもよぉ、上田布袋軒を知らないボーイも一杯居るみたいだからな、しょうがねえや、嫌々だけど話してやるよ。今日はよ、弁士の歴史に興味のある奴だけが対象ぢゃないゼ。演芸史、映画史に興味のあるBoy&Girlも必見だ!それだけ弁士列伝は真面目に書いてるって事だ。他の文章は虫、おい字が違うぢゃねえかよ、無視されても構わない、な~んて強がってるけど、弁士列伝は反応が欲しいみたいだゼ。ゼはカタカナなのがチャームポイントだ!そんな訳だからコメントとかよろしくな。それぢゃ上田布袋軒にチェキラ。




 意味が解んねぇ。 上田布袋軒

 上田布袋軒(うえだほていけん)、本名は上田恒次郎という。嘉永2(1849)年、大阪南船場の大商家に生まれる。没年不詳。

 上田恒次郎は少年の頃から大の負けず嫌いであった。明治維新の時分に理由もなく乱暴を振るう長州の武士癪に障って仕方がなかった。ある日、幕府方の武士と長州方の武士が口論しているのを見かけた恒次郎は、言い争いの末、あわや刀が抜かれるかという時に、いきなり長州方の横面を張り倒しで堂島川に投げ込んでしまったという。恒次郎、二十歳頃の事である。

 血気に溢れ行動的な恒次郎は、その後家業を継ぐが自由に出来る金が転がり込んできただけの事で道楽者の本領を発揮、自身で「大きな商人」と言っている程の財産を使い果たしてしまう。どういった遊びをしていたか、具体的には不明だが本人の回想には西洋の草花を仕入れて見世物にした時に監督として付いたエピソードが披露されており、興行のパトロンに手を出していたのではないかと推察される。ともあれ種々の興行に付き、口上を述べ、時には表方、あるいは勘定方と財産を食潰しながら面白可笑しく暮らしていたという。恒次郎が取り組んだいくつもの中に道楽に素人義太夫があった。素人仲間と座を設けたりしていたようだが、ある時恒次郎の実家の全盛時に出入りしていた竹本津太夫(後の七代目竹本綱太夫)に「どうです上田の若坊ン、一層のこと太夫になっては」と進められた。この事があって津太夫の弟子になり布袋軒の名前を貰った。津太夫の弟子になった時期はこれまた不明だが、談話の前後関係から推察すると二十代の終わり頃であった可能性が高い。弟子になったといっても本職ではなく、あくまで素人弟子なのであろうが生来から語ることが好きだった布袋軒は道楽と相まって二十年程の期間を太夫と口上言いの兼業で過ごしていた。

 実家の財産を使いきってしまえば転落が待っているのが道楽者の若旦那の常であるが、布袋軒の場合は例外だったようで、息子が立派に独立し小間物商として、この二十年間で独立し父親の面倒を見ていたようである。

 そして明治29(1896)年、布袋軒にとってと言うより、日本の文化にとって大きな出来事が起きる。この年、映画(キネトスコープ)が輸入されたのだ。神戸に到着した映画は先ず、来港した皇族小松宮殿下の御台覧に供し『名機なる旨の賛詞を賜り』大いに気を良くした関係者によって一般への公開となった。しかしながら当時のフィルムはごく短く、興行としてはボリュームが不足していた。それに日本人にとって未知の装置である映画をは何であるかを説明し、場を盛り上げ、興行時間を延ばせる人物が必要となった。そこで興行主の目に留まったのが弁舌巧みを売り物にしていた上田布袋軒であった。かくして明治29年11月25日、映画は日本で初めて公開され、その時の説明を受け持った上田布袋軒は弁士第一号となったのである。時に布袋軒満47歳であった。

 その時の様子が大阪毎日新聞明治45年4月18日に「活動昔噺」として掲載されているので引用の、そのまた引用となるが紹介する。

トコロが、このキネトスコープはどういう仕掛けにして見せたものかというと、ソレは頗る勿体至極なものであった。キネトスコープは箱型の物であるから、これを演舞場の畳の敷いて居ある二階座敷の中央へチョコなんと置いてある。観覧客は御拝見という体裁で詰めかけると、興行人のほうでは一々これにお茶を出して待たしておいて、順々に一人ずつ“さァ御覧下さい”と覗かしたものである。
 時にこのキネトスコープの説明弁士は例のホテー軒上田恒次郎である。ホテー軒という男は自分の息子が立派な商売をしていたのだが、コンな物の口上言いなどは大の道楽で、ユルユルのカラーをかけた燕尾服か何かで押出し、何でも説明してみせる。ナニ、俺が知らぬものがあるものかと、色々苦心して、妙なことに理屈をつけて説明するので、つうに一名を高慢屋ともいわれた程だ。コノ男も関心に高慢をいうだけに、新しい写真が来るとすぐ学者を訪問して、説明を聞き歩き、道を歩いていても珍しいものがあれば、すぐにその店に飛び込んで聞いてみるをいう熱心なものであった。



 こうして映画は日本にもたらされたのであるが、特筆すべきはこの約3カ月の間にシネマトグラフ、ヴアィタスコープが関東と関西で次々に公開され、そのどの興行にも説明者(弁士)が付いたという事実である。後の世界的にも特異な弁士という映画・芸能文化は、映画伝来の時、既に興行の中核を担っていたのである。参考までにそれぞれのデータを掲載しておく。

 ●キネトスコープ 明治29年11月25日初公開
  会場/神戸神港倶楽部 興行主/高橋慎治 弁士/上田布袋軒
 ●シネマトグラフ(関西) 明治30年2月15日初公開
  会場/南地演舞場 興行主/稲畑勝太郎 弁士/高橋仙吉・坂田千駒
 ●シネマトグラフ(関東) 明治30年3月9日初公開
  会場/横浜港座 興行主/吉沢商会 弁士/中川慶二
 ●ヴァイタスコープ(関西) 明治30年2月22日初公開
  会場/新町演舞場 興行主/荒木和一 弁士/上田布袋軒
 ●ヴァイタスコープ(関東) 明治30年3月6日初公開
  会場/神田錦輝館 興行主/新居商会 弁士/十文字大元

 注意して見て頂ければ解るが、上田布袋軒はヴァイタスコープの関西初公開の時にも弁士として登場している。まさに元祖中の元祖と言えよう。ちなみに関西におけるヴァイタスコープの初公開は周防洋で沈没した三光丸の遺族義損を名目として興行された。この興行が契機となり荒木和一はその後の説明を布袋軒に依頼するようになった。明治30年5月、荒木は新たに輸入したプロジェクティング・キネトスコープの興行にも説明を依頼した。この時の目玉となったのがメイ・アーウィンとジョン・ライスによる世界初のキスの映像であった。荒木は臨観の警官に咎められるのではないかと内心ハラハラしていたが、布袋軒はキッスとは西洋の儀礼の一つであって、何もおかしいものではないと大演説をぶち、警官は布袋軒の弁舌にのまれた形であったという。

 押出しも利き、機転も充分な布袋軒であったが活動期間は明治29年11月から41年春迄と約11年程度である。この間に関東でシネマトグラフ初公開時に説明を担当した中川慶二や、巡回上映で全国に名を轟かせた駒田好洋らとも共演し、あるいは東京で説明をした事もあったという。また初期弁士の大物である大山孝之、江田不識といった弟子も育てた。

 しかし順調そのものだった明治41(1908)年に布袋軒は突如弁士の職を辞する。この前年、大阪初の横綱若島権四郎が引退し興行主として活動を始めていたのだが、布袋軒はこの権四郎と仲が良く若島活動写真部の説明を請け負う事となった。弟子3人を伴い九州一円を終え、中国路へ入り、下関を振り出しに興行を続け広島県畳屋町(現在の中区小網町付近)の寿座で公演となった。布袋軒が演台に立とうとした時、息子の嫁が病気危篤との電報が届けられた。息子がさぞ心配しているだろうと思いながら語ったところ、説明中思わずトチってしまった。いかに家族が心配とはいえ、そのトチリは布袋軒にとって大いに恥ずべき事であった為、その日限りに弁士を引退したという。最後の演目は『不如帰』であったと布袋軒は語っている。

 長々書いたが、まだまだ布袋軒には謎が多い。約十年の間の活動が殆ど闇の中である。今後、新聞記事等で追加調査を心掛けたい。また布袋軒がその名を貰ったという七代目綱太夫との交流、太夫としての布袋軒の活動、生まれた大商人とはどこだったのか、息子が営んでいた小間物商とはどんな店であったのか(これに関しては大正5年時に大阪市西区新町地南通1丁目と書かれている資料がある)、若島活動写真部の実態等々、映画史以外の部分から布袋軒に光を当てる作業が必要となってくるであろう。
 
 ソースを明かしておく必要もあろう。本稿の中心となったのは『新演芸』大正5年5月号に掲載の上田布袋軒の回顧談である。個人の回想ゆえ記憶違いや誇張が無いとは言い切れぬし、現実に年号、人名等は修正を要したが、この資料以上に布袋件に就いて詳しく語られているものはない。偉そうな事を言っても、これとてプライマリーソースにあたった訳ではなく、梅村紫声先生発行の『映画史料』に転載された物を参考とさせて頂いている。この回顧談に当時の新聞記事、映画史家水野一二三氏が荒木和一氏から聞いた談話記事を補助として本稿は書かれた。梅村紫声が先生で水野一二三が氏なのを不快に思われる方もいらっしゃるかと思うが、私が弁士という事でご理解頂きたい。さらに先人をケナすつもりは毛頭ないが御園京平氏の好著『活辯時代』の上田布袋軒に関する記述は布袋軒の回顧談を事前に読みながら執筆時に確認作業をしなかった形跡があるため時間の流れが不正確なものになっている。代表的な活弁に関する資料であるだけに、あえて書いておく次第。


 

 
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