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 実感がなかなか湧かなくて困っていたのですが、ようやく海外公演の実感が湧いてきました。なぜかと言うと夢を見たのです。どんな夢かは置いておきまして、過日、向こうの人に配る用のメッセージを書けと言われました。ようやく書いたのでここにも乗っけておこうと思った次第です。

 少しだけ真面目に書きました。誤字や何かあるかもしれないけど…。 クロアチアで『狂った一頁』を語るにあたって

 クロアチアで弁士として『狂った一頁』を語る。私にとって初の海外公演であるが全く不安は無い。むしろ今は楽しみで、早く出発出来ないものかと念じている。

 活動写真弁士はいくつかの例外はあるものの、日本で育った特異な文化である。その弁士の文化を持つ日本の無声映画ファンの中には、弁士の存在を嫌う人も少なくない。「偉大な作品を一介の芸人が解釈し、語る事は作品に対する冒涜である」という発想故である。ましてや今回の『狂った一頁』は日本初のアバンギャルド映画である。現在の日本国内でこの作品に弁士が付く事に相当の反発を感じる人も多かろうと思う。そう思う人の気持ちも分る。分りながら私はこの『狂った一頁』を語る。

 なぜならば無声映画は詩であると私は考えるからである。中でも『狂った一頁』は挑戦と遊び心に満ちた飛び切りの実験詩なのだ。こうした作品の上映形態を、斯くあるべしと決めつける事は、むしろ作品の精神を削ぐ事になりはしないか。弁士も伴奏も付けずに無声映画を無音のまま観る事は、詩を黙読する行為に等しい。そして伴奏者が付き、さらに弁士が付く事は、詩を音読する行為に等しい。詩の鑑賞法としてどちらかに上下を与えるのは至極ナンセンスな行為である。だから私は映画という詩を語る。そしてグルーバー氏は映画という詩を奏でる。

 冒頭で私は不安が無い、と述べた。それは私がグルーバー氏を信頼しているからであり、『狂った一頁』信頼しているからである。楽しみだ、とも書いた。それは海外で語れるからだ。日本語の通じない土地で日本語で語る事、それは私の語りが日本語から解き放たれて日本音になることを意味する。言語が瑣末な意味から解放される。これ程、この作品に適した環境はあるまい。私は映画と音楽を感じ、グルーバー氏は映画と言葉を感じる事で、三者は時に寄り添い、時に逆らいながら「詩」を完成させる事だろう。私とグルーバー氏と、そして『狂った一頁』が一つになった時、それは、その刹那、モトヴン映画祭でしか体験する事のできない「詩」が生まれると信じてやまない。

         2007.7.15 片岡一郎
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