年に一回の恒例企画、澤登翠一門会も本年で三回目となったのです。初めて「一門会をやります」と宣言したときには多方面から「普段と何が違うン?」とツっこまれ、未だに一門全員が揃わず、第一回では一門会通信なるものを作り原稿を立川談志師匠に頂いていたのに第三回では通信は既に無いという足元グズグズ、いつ地盤沈下を起こしても不思議がない中での第三回ですから当然感慨があるかと言えばそんな事もなく、ようやくいい湯加減になってきたと安心して臨んだのが今回で御座いました。

 公演内容はこんな感じ。

●【レクチャー 講師=澤登翠】活弁映画史講座 三限目
●『世界の心』
  1918年アメリカ作品
  監督/D・W・グリフィス
  主演/リリアン・ギッシュ、ロバート・ハーロン
  説明/片岡一郎、斉藤裕子、桜井麻美、澤登翠(リレー・口演順)

 活弁映画史講座は凄いの一言でありました。内容がではなくて師匠の悪乗りっぷりがね。師匠も今年は芸暦35年、どう考えたっていい年齢なのですよ。その位の年齢の女性があそこまで異次元トークをかませてしまう現実は我々弟子をのけ反らせるのです。出来ませんぜ、あれは。出来ない事なので上手く書けません。この日実際に見た人だけが喜ぶなりガッカリするなりすればいいのでせう。でも、でもです。キチンとした澤登翠しか観た事のない人は一度観る価値がありますよ。

 そして映画は『世界の心』でありました。

 一門によるリレー活弁は三回目ですが、今年のは演者としては楽しい演目となりました。というのも過去二回は一本の作品をソツなく、アラもなく纏めた感じですが、今回は各個人の解釈(作品であり人物であり)が見事にバラけて一本の映画を分担して語っているにも関わらず、一種オムニバス映画の様な雰囲気が出たのでした。

 演者が変われば作品が変わる。

 この単純な命題はそれ故に映画至上主義の方にとって弁士批判の大きな理由となります。しかし場が変わり時代が変ってもやっぱり映画は変わるんだから、まあ良いじゃないですかとアタシは思っちゃうのです。殊に作中字幕に対して師匠が度々「と、グリフィスは言っています」と断りを入れていたのは弁士の横暴ではなく、時代の変化を考えたときに必要な処置であろうと思うのですが、皆様はいかがお考えでしょうか?

 ちなみに『世界の心』は大作です。大作ではありますが、当時の批評での評価は芳しくありません。要因は色々あるのですが重要な要素としてグリフィスが時代遅れになってきたという点が上げられます。彼は作中で平和の重要性を語っていますが、肝心の平和というものに対する認識が世界標準からすると旧弊なものであるのです。

 グリフィスは映画の父と呼ばれます。様々な技法を映画表現の中に定着させた彼の功績は今日なお色あせるものではありません。しかし、そのグリフィスが時代遅れと評されるという事は、映画がこの時期、いかに急速に進歩していたかを物語る事実ではなかろうかと思います。それに比すと現在は時代遅れな物や人が無い社会のような気が致します。あらゆる現象の変化のスピードが速すぎて時代に遅れたと周囲が認識する前に、誰も顧みない存在になってしまう。「あんな事、まだやってるの」って人が居ないのは不気味といえば不気味です。だって居ないのではないのです。居るのにそんな人どこにも居ないかの如く世の中が動いているのです。

 活弁はちょっと前まで「懐かしの」が売り文句でした。最近は「かえって新しい」が売り文句です。でも、もしかすると時代遅れな現象って大事かも知れない。上手く言えないけれど。
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|07/30| もやもやコメント(0)TB(0)












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