どん底

 下町ダニーローズ第八回公演『どん底』であります。今回は有料パンフレットに関わらせて頂きました。考えてみればありがたい事です。

 そして考えてみれば私は日本大学芸術学部演劇学科理評コースの学生だった時代があったのです。当時を思い出してガッコにレポートでも提出するつもりで書いてみようかと思います。関係者の皆さん、面白いと思ったらコメントか何か下さいな。腹が立ったり、解ってねぇなとと思ったらスルーの方向で。お互い大人ですものね。なんて逃げを打っちゃイケマセン。

 ちなみに12月27日付けの記事ですが、これは私が観劇した日であり実際のアップは楽日の夕方です。ネタバレしちゃってるじゃないかみたいな心配しなくても大丈夫です。これは関係者の皆さんに向けてのメッセージです。それから学生レベルですが一応劇評の体裁をとっていますので敬称は付けません。なので文中では私如きが志らく師匠を呼び捨てにします。立川志らくとか志らくとか。別に気持ち良いなんて思ってません。でもこんな理由でもなければ呼び捨てにはできないじゃないですか、志らくだなんて。もいっかい言っとこ、立川志らく。  どん底2

 『どん底』は言うまでもなく世界的に有名なマクシム・ゴーリキーの脚本である。1902年に発表された本作は今日なお様々な劇団によって世界各地でアレンジされ上演されている。この作品の特徴とは何か、一言で言うならば人間を描いている、という点に尽きるだろう。どん底の境遇に暮らす人々を描く事は常に現代を照射する鏡となる。何故なれば我々の生活している日常、我々が日常だと思い込んでいるものは極めて地盤のゆるい土地の上に建つ建造物であり、ある瞬間に容易に足場が崩れ去ってしまう危険を孕んでいる、つまり否応無しに我々はどん底に叩き込まれる可能性を感じながら生きているからである。観客が『どん底』を観るとき、舞台に描かれているのはフィクションではあるが、しかし容易に舞台と客席の境界線を越えて日常に侵食し得る、あり得べき未来であり確かにあった過去なのである。すなわち『どん底』を演じる際に求められるのは、この普遍性を持つテキストを、演じられる時代と場所に対応させる能力であると言える。さもなければ作品のメッセージは空虚になり徒に難解さばかりが先行する舞台になってしまうのは火を見るよりも明らかといえるだろう。

 今回、演出・脚色の立川志らくが選んだのは終戦直前の日本、しかも広島の貧民窟である。となれば物語中には当然の如く原爆が絡んでくる。人類史上最悪の兵器が純然たる兵器として使用された瞬間はまさにどん底と言えるだろう。この空間設定により本作は見事な二重構造を獲得している。開演直後に貧民窟=どん底の構図を観客は疑わない。しかし原爆によってさらなるどん底が瞬間的に現出するに至りそれまで信じていた価値観を観客は揺さぶられるのである。どん底だと思っていた時間が瞬間的に幸せだった時間へと転じてしまう事件は日常>どん底という不等式すらも疑わしめる効果を持つ。価値観の崩壊がある種のカタルシスをもたらすのは観劇や読書を好む人であれば理解できる感覚であろうが、貧民窟のどん底と原爆のどん底は極めて単純ながら効果的に我々の価値観を揺さぶってくる。また現代の日本も多くの外交上の問題を抱えており北朝鮮はいつ日本に向けて核ミサイルを発射しても不思議は無く、表向き友好関係を謳っている中国との間も北朝鮮以上の火種となる可能性を持っている。となれば本作の原爆、即ち核兵器とは第二次世界大戦以降、今まで以上にない程リアルな脅威として受け止められる存在なのである。となればどん底のさらにどん底として描かれる壮絶なラストは明日我々の日常を侵すかも知れないどん底なのである。こうしたオリジナルな設定の加味による物語の深化はシネマ落語等で高いアレンジ能力を見せる志らくの面目躍如といえるだろう。

 さて、オリジナルといえば、いま一つ着目したい点がある。サブタイトルに「化け物達の晩餐会」としてあるように登場人物が化け物になぞらえられているという点だ。幾つか例を挙げてみよう。半次・半漁人、澄子・鬼婆、蝙蝠・吸血鬼、貞子・幽霊、徳三郎・狼男といった具合である。全ての役はこうした化け物の側面を持っており、時に役が人間であるという前提を乗り越えて化け物の本性が露出してくる。ここでも本作は人間と化け物の二重構造を獲得している。もっとも人間の両面性という意味での二重構造は原作の『どん底』のみならず、多くの物語でより巧妙に描かれており、人間と化け物の対比は優れた設定とは言えないかもしれない。いや少なくとも人格の表裏面を表現する技法として表と裏が分化し過ぎてしまい褒められない。だが下町ダニーローズの公演には笑いが不可欠であり、化け物の側面はここで活かされている。どん底で暮らす人々のコミカルな部分が化け物の名前と行動を借りて表現されており、あるいは人物の内面を二重構造に留まらず三重構造まで表現していると考えられなくもないが、それは贔屓がすぎるだろうか。

 ともかく様々な角度から人物たちは描かれているが、その中でも特に目を引く役が噺家の梶本である。名前がカジモトであるから化け物名はせむし男だ。その名に恥じる事なく梶本の背も大きく湾曲している。彼は「化け物達の晩餐会」の中でも極めて分り易い異形を持っているのだが、実はこの舞台の登場人物達のほとんどが大なり小なり背が曲がっているのだ。演じているうちに背が曲がった役者もいるだろう。あるいは元々猫背気味な役者もいるだろう。しかしとにかく彼らの背は曲がっているのだ。あたかも何かから身を潜めるように背を丸めている。何かとはなにか?再度梶本に目を向けてみる。梶本は噺家である、しかし落語を語る事は出来ない。ひたすらに蕎麦を食べる稽古をしている。死の床に伏している妻から饅頭を分けてもらうにも「饅頭怖いという噺の稽古に貰う」と言い訳をしている。しかしとうとう饅頭怖いはおろか小噺一つ語らない。たまに口をつくのは駄洒落でしかない。そのどれもが面白くない。彼が背を丸める事によって身を縮込ませ逃れているのは彼をとりまく現実であり、彼自身であろう。どん底の貧民窟では誰もがウソを吐いて生きている。
 喜瀬川は過去を偽り自分をろくろ首だと、本当に吃驚した時、目の覚めるようないい男が迎えに来てくれた時に首が伸びると言う。
 桃太郎は知恵遅れの狂気を演じる。だが鬼退治に行くはずの桃太郎は家来が揃わず鬼退治に行けない。だから鬼婆こと澄子の前では気の小さな男でしかない。
 梅喜は好々爺の巡礼として現れる。彼は物語中では確かに好々爺である。しかし警察の調べが入る可能性が生じるやいなや風の様に姿を消す。

 一つ目こと巡査の鳥沢は言う「もしここの連中、正直な暮らしを始めたら三日とたたねぇうちに飢え死にする」と。正直な暮らしとは自分に嘘を吐く事を止める事でもある。だから彼らは背を丸め自分を騙しながら生きている。生きる為に背を丸めるのだ。

 その彼らの背中が伸びる瞬間がある。ラスト付近、舞台が一瞬の閃光に包まれ轟音が続いて響くその瞬間である。あの瞬間、原爆の熱風が彼らの身を焼く尽くす刹那にのみ、化け物達は背を伸ばす事が出来たのだ。では原爆は彼らにとって、即ち我々にとって救いの光なのか?それはおそらく否だろう。ラストシーン、生き延びた半次を取り巻く化け物達の幽霊の背を見てみるといい。やはり彼らの背は死してなお曲がっているではないか。



 以上であります。さてさて下町ダニーローズ次回は紀伊国屋ホールだそうです。着実に成長を遂げている劇団ですが、外から見た課題を一つだけ。おそらく今後の舞台で問題になるのは身体性だと思うのです。柔軟性とか筋力とかに不安な感じがする人が多いのです。それから意外と健康面弱めの方が多かったりします。志らく師匠は芝居は魂で演じると仰っています。それはそうなのですが役を魂で感じても肉体がついてこないというパターンもあります。もっと言うと心で解っているのに体が演じてくれないという事態にも(劇場や公演の規模が大きくなればなるほど)なると思うのです。今後は柔軟体操、筋トレもしなくてはならないかもしれません。志らく師匠と一琴師匠が並んで腕立て伏せをしている姿など是非見てみたいです、ワタクシ。
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