ゴー宣・暫

 『ゴーマニズム宣言』は凄い作品です。漫画を言論のフィールドに持ち込んだ(持ち上げたではないよ、念為)ことは大いに評価される事でしょう。といっても私自身は「ゴー宣」は1・2巻と靖国論、それに連載をちょろちょろと見ただけで全体の10分の1にも満たない量しか読んでおりません。けれどもたまに読む「ゴー宣」は何かしらの刺激を与えてくれましたので、やはり凄いなとは思っていたのです。
 
 私の小林よしのり初体験は同世代の多くがそうであるように『おぼっちゃまくん』でした。当時のアタシはこの漫画を好きになれませんでした。内気というか気の小さい自分にともだちんこやいいなけつは重たかったのでありましょう。しかし今になって考えると『おぼっちゃまくん』にしても出世作『東大一直線』にしても当時の日本人が何に浮き足立っていたかが良く描かれていて、小林よしのりという人は時代を読み取る力のある人だなと、今更ながら感心してしまうのです。

 そんな方ですから『ゴーマニズム宣言』を始めたのも当然の流れだったのかもしれません(結果論ではありますが)。しかしながらかつて私が「ゴー宣」で最も感心したのはそうした時代感覚ではなく「ゴーマンかましてよかですか?」という一言でした。これは素晴らしい発明だと高校生だった私は唸りましたね。どんな暴論であろうとあらかじめゴーマンだとことわっている以上、それに愚図愚図文句を言う奴がみっともなくなってしまうという構図、これが凄かった。正論も暴論も等しく娯楽化できる様式だったんですね。実際、編集に踊らされたのか宅八郎氏がこの連載に噛み付いて、結果醜態をさらしていましたっけ当時。

   ところが新刊の『ゴー宣・暫』では様子が違います。これまでは「ごーまんかましてよかですか?」と言っていたよしりんが鎌倉権五郎に扮して主張をします。これにちょいと違和感を覚えたのです。

 「暫」は市川家に代々伝わる歌舞伎十八番の一つなんですが、筋は無いに等しい。大雑把に言うと悪い奴が良い人をいじめているところに正義の味方が突如現れて悪い奴を懲らしめる。これだけのモンです。近代演劇のドラマツルギーから考えたら駄作以前、評価の対象外でしかありません。ではなぜ人気演目として今日まで生き残っているのか。幾つもの要因がありますが、一つには単純な構造ゆえに悪役を時代に対応させる事が出来るというのが考えられます。勿論、芝居の台詞は変わりませんが観客は舞台上でやっつけられる悪者に何かを投影しながら、それを懲らしめる正義の味方に拍手を送る事で日々の憂さを晴らしているのです。こうした自己投影は物語の構造が簡単であるほどやり易い。ですから「暫」は今日まで命脈を保ってきたと考える事が可能なのです。

 そしてその「暫」に登場する正義の味方が鎌倉権五郎で、彼が登場する時の台詞が「しばらく」なのです。よしりんは彼に扮しているのです。と言うことは本作で語られている事はごーまんではなく正義の言葉と言うことになってしまうのです。ここに違和感を感じるのです。たとえどんなに主張が正しくても正義の言葉として発してしまうのは漫画との娯楽の側面を後退させているのではないか、あくまで私見ですが、そう感じたのです。無論、作中でご本人が『「覚悟」の言論』と表現していますのでその程度のことは自覚してやっているのでしょう。でもよしりんには正義の味方であるよりゴーマニストで居て欲しかったと思うのです。

 他人に、こうであるべきだと一方的に言う事ほど傲慢な事はないとはわかっておりますのよ。
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|02/23| 読書コメント(0)TB(0)












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