カウンターなるものを付けているのは折角だからという、極めて消極的な理由に過ぎんのです。そもそも、アタイは単純に文章を書くことを目的として書いているので何人の人が見ているだろう、などと感心をもち、あまつさえ数値を具体的に出す必要は全くないどころか、障りにしかならないのです。しかしながら突然数値が伸びると理由を考えたりするのは、悔しいのですが若干の楽しさがあります。数字を伸ばすためだけに山崎バニラの話題でもやってみるか、などと他人の迷惑を考えずに思ったりなんかもします。なぜ、数字の事など気にしたかと言えば、ふた月もやっていい加減ブログとやら申すものに飽きてきただけなのです。毎日やってる人は偉いかヒマなのでしょう。いや、ヒマってだけでは到底出来る作業ではないので偉いんでしょう、やっぱり。アタシにゃ無理で御座んす。

 そのカウンター、アタクシの処は一日平均10程度動きますが、十日に一度位、突然30ン件動くことがあります。で、次の日はまた10件で、少し下がって何かで更新すると15件前後です。グラフで見ると死ぬ直前の心電図の様で、何だか守ってやらなければならないような気になってきます。「お父さん!しっかりぃ!」ってな心境です。いや死に体なのはお父さんではなくてアタシなのですが。  考えて見ると最近のドラマでは心電図をあまり見ない気がします。私はテレビをほとんど見ないので、本当のトコロは良く知らないのですが、昔のドラマでは

「お父さん!しっかりぃ!」
すがりつく妻、しかし叫びも虚しく弱弱しく波を打っていた心電図が水平線のみを描く。ピーという高い音。
「ご臨終です」
「あ…あぁ…」
泣き崩れる妻、肩を優しく抱く息子、病室の隅で一人ほくそ笑む伯母。
夫には伯母名義で多額の保険が掛けられていたのである。

みたいな光景があった気がしますが、いかがなものでしょうか?

 現代は死がどんどん曖昧になってきています。医学的な知識が無い人でも脳死を死と呼ぶべきかどうかの論議は知っているでしょうし、延命技術の進歩は凄まじいものがあると、医療の現場に居ない我々は素人了見に思ってしまうのが現代です。人をとりあえず生かしておくことが出来る。そんなイメージが浸透すれば「ご臨終です」や「ご愁傷さまです」といった台詞にリアリティを求める事が難しくなります。厳然として死は存在しているのに、死のリアリティだけがどんどん希薄になっていく。残酷な殺人、特に若年層がそれを起こした場合にゲームの影響が指摘されることは、今や当然になってきてしまいました。ゲームのせいにしておけば、若干の消化不良を伴っているとはいえ多くの視聴者が納得できるからでしょう。しかし、もしかしたら数々の凄惨な殺人事件の背景には医療の進歩を根源とする死の空虚化が指摘できるかもしれません。首を絞めただけでは相手が死んだと納得できなくなってバラバラにするのかもしれない。そんな風にふと思うのですが、それは暴論でしょうか。

 生きることは死ぬことですから、生きていく為の活力を得る為にはどうしても死のリアリティが必要な気がします。少なくとも死の境界線の向こうは人間にとって最大の謎であり関心事です。となれば死に対して様々な想像を巡らせる、その想像があらゆる芸術や宗教や科学を生み出していると練馬在住のセコ活動写真弁士は常から考えているのです。畢竟、我々芸人が生きていく為には死が何としても必要なのです。なのに繰り返すようですが死が希薄化しているのです。由々しき事態と言わねばなりますまい。

 そんな御託は売れている芸人が言うから意味があるのだと指摘される方もおられましょう。その方に対して私が言えることはただ一つです。
「全く、そのとおり」
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|03/07| もやもやコメント(0)TB(0)












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