庭先案内 2巻

 ずっと好きなものがあります、多くの人には。ワタクシにとって、このマンガの作者須藤真澄さんという方はそうした対象です。高校時代からだから13年の間ずっとこの方の作品を愛読してきました。なぜ、かくも須藤作品に魅かれるかと申せば、代わりが居ないからとしかいい様がないのです。芸人でも作家でも代わりの無い存在感がとても重要です、私には。それは私が小さい頃からずっと変わり者と周りに言われてきた事に起因しているに違いないのです。変わり者で輪に入るのが苦手だった少年は代わりのない個性を持つ人に強く憧れる様になっていってしまったのです。発売直後に購入してその日の中に読んだのですが、今頃それについて書きます。つまり書きたかったってことですやね。

 須藤真澄作品は大別すると二つに分けられます。一つが『アクアリウム』や『電気ブラン』系統のファンタジードラマ、もう一つが『ゆず』や『おさんぽ大王』のような日常ギャグマンガです。本書『庭先案内』はファンタジーの方です。須藤作品におけるファンタジーの構成はいつも同じです。
 
 日常にふと異物が紛れ込んで主人公は動揺するのですが、気を落ち着けて異物を受け入れると、そこには忘れていた大事ものがあった。

 言葉にすればこの繰り返しなのですが、どの作品もそれぞれに独特の世界観を持っています。全てきちんと違う話になっている。これは描きたくても描けません。優れているのです、作者の目線が。失われてゆくもの、失われてゆきつつあるものに対しての、どこまでも深い視線が同じ構成の作品に多彩な変化を与えていると、勝手に思っています。

   もひとつ野暮な分析をしましょう。須藤作品には霊や幻燈のような不確かなこの世ならざりしモノが重要な位置を占めています。突然、幽霊画現れる作品が多いのです。これは能に良く似ています。能は良く知らない方からは退屈なものの代名詞かもしれませんが、調べていくとどうしてなかなか演出が非常に凝っていて、受け入れ易い構造なのです。その装置の一つが幽霊で、日本人は神の言うことはあまりよく聞きませんが、霊の言うことは妙によく聞くんですね。江原ナニガシという小太りの霊能者の言うことは皆熱心に涙を流して聞いてます。ヤラセだと言いつつも思わず観てしまう方、大勢いると思います。江原氏はともかく、能には幽霊がでてきて様々な訴えごとをします。この設定により観客はメッセージを素直に聞くメカニズムになっているのですが、能における幽霊のデハケと須藤作品における幽霊の登場、退場の演出がとても良く似ているのです。作者が能を利用したと言いたいのではありません。一人の作家が自分のメッセージを伝える方法論が自然に能に近似した事が非常に愉快だと言いたいのです。

 つらつらと書きましたが分析は作品の興を著しく削ぎます。やらん方がいいのです。少なくともこの文章を読んで須藤真澄のマンガを読みたいと思う人はいないでしょう。イカンことです。ファンならば読者が増えるような文章を書かねばなりません。須藤真澄を未読の方、読んで読んで読んで。いいですよ、うん。
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|03/14| 読書コメント(0)TB(0)












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