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週刊ウシゴメ 第二十号 昭和二年七月九日発行

 本日の画像は牛込館のプログラムを載せてみました。筆者蔵です。須田貞明の顔を見たいという方は共同通信社から発行されている『黒澤明 夢のあしあと』を御覧下さい。鮮明な須田の写真が掲載されています。さて、須田貞明のその2であります。本日は須田の芸と人について書いてみたいと思います。といって私の知る限り須田貞明は映画説明をレコードに吹き込んではおりませんので実際の声に当たって考察する事は不可能なのです。あくまで幾つかの記述による想像でしかありません。ご了承を。

 余談ではありますが、当時のレコード吹き込みに関東洋画説明の重鎮は吹込みが極めて少ないのが現実です。全国的に有名だった夢声にしても、現存が確認されている映画説明のSP盤は「ジークフリート」だけという淋しさ。これにはセールスの問題とレコード会社が関西圏に集中していたことが理由として挙げられると思います。洋画説明で有名な生駒雷遊も吹き込みは時代劇中心です。仕方のない事とはいえ洋画専門の説明者をもう少し残してくれたらと思わずにはいられません。
 では本論。須田貞明の芸に関する記述を幾つか拾って見ることにしましょう。

  ●「冷たくかたまった、アスファルトの上に…」この人の説明が耳に残る。
   
  ●小学生のぼくにとってはしかし、いかなる名作佳篇も説明者抜きには考えられないものだった。生駒の<沈黙>であり、夢声の<ヴァリエエテ>であり、山野の<キートン物>であり、滝田天籟の<春のめざめ>であり、須田貞明の<パンドラの箱>であり(後略)

  ●だいたいトーキー初期における説明者の往き方には三種類あったらしい。(中略)その二つは樋口旭琅・須田貞明らのトーキーと喧嘩みたいに怒鳴りあうという重労働説明。

  ●ほかの説明者が、申し合わせたように、夢声の模倣をするなかに、彼一人、滝田天籟の調子をとり入れ、仙石雷磎を咀嚼、思い切って浪漫的な説明を、開拓して目立った。

 
  ●須田貞明はなんといってもパレス時代が最高だった。<プラーグの大学生><妖花アラウネ>など妖怪趣味の幻想映画に本領を発揮した。トーキーでのジョン・バリの<悪魔スヴェンガリ>は何か鬼気を感じさせるものさえあった。後年、SP系説明部解散後(昭和7年3月)は仙石雷蹊経営の大井昭栄館や古巣のパレスへ出演、<青の光>ドライエルの<吸血鬼><南海の劫火><春の驟雨>などに劇的でしかも充分抒情的な説明を聞かせてくれた。

 この中で重要なのは須田が夢声調から離れ、独自の芸風を確立していたと言う点でしょう。浪漫的と表現される彼の説明が良くハマったのが『パンドラの箱』『アスファルト』『妖花アラウネ』といった作品でした。これらの作品はどれ独特のやや暗めのトーンを持っており、女優の物憂げな雰囲気も共通しています。夢声のマを取る語り口とは違う、リズムと文学的・知性的表現が須田の武器ではなかったかと予想されます。実際、須田が取り入れた滝田天籟は欧州もの、固い文芸ものが得意であり「何々でありましたよ」と言葉の最後にヨをつける映画と説明者に一定の距離を設ける説明であったという。もう少し踏み込んで考えるならば、須田が観客として通い映画評を投稿した大正10年頃の浅草帝国館の説明陣から彼の芸風を予想する材料にはなろうかと思う。映画史、説明史研究の大先達御園京平氏の調査によれば、この当時の帝国館には生駒雷遊、玉井旭洋、金井紫遊、加志田松緑、樋口旭浪、仙石雷蹊が居ました。生駒雷遊は名弁士中の名弁士であり、堂々たる語り口は今日現存しているレコードからも窺う事が出来ます。夢声に比べれば多分にリズミカルな口調ではありますが、それは生駒の知性を否定する材料にはなりません。生駒はあくまで浅草の客めがけて語っていたということです。知的な説明といえば夢声のような語り口ばかりだと主われ勝ちですが、全く別の形での知的説明が弁士の芸には存在していた事実は知っておかねばならないと思います。また須田を追うと、度々出てくる仙石雷蹊、彼も須田貞明に与えた影響は大きかったのではないでしょうか。

 そしてもう一点考えるべきが須田貞明の人生観です。彼の人生を調べていると常に死の影が付きまとっているのです。山野一郎によって書かれた数度の自殺は言うに及ばず、弟の自伝に出てくエピソードからも死に関心を抱いていた事がうかがわれます。例えば水泳特訓の時も泳げない弟を川に放り込んで上がって来ようとする度に突き落とす。ここまでは大した事ではないのです。問題はいよいよ明が溺れそうになり、引き上げた後の帰り道での丙午の言葉です。「明、人が水に溺れる時、ニヤッとわらうというのは本当だな、お前も笑ったよ」と丙午少年は弟に言ったのです。また丙午13歳のとき一つ上の姉百代が亡くなり、葬儀の席で笑い出した明を外に連れ出した丙午は本堂を振り返り「馬鹿馬鹿しい!」と吐き出すように言ったのです。さらには関東大震災の直後、明を連れ出し死体の山を見に行き、怯える弟に直視をさせた上、座禅を組んだまま黒焦げになった死体をみて「立派だな」とポツンと言ったというエピソードも紹介されています。

 弟の溺れる瞬間の顔を観察し、姉の葬儀を否定し、泰然として死んだであろう焼死体を立派と思う。これらが全て丙午10代での行動です。何という死に対する関心でしょうか。

 さらに彼は口癖のように言っていたのです。

 俺は、三十になる前に死ぬ、人間三十を越すと醜悪になるばかりだ。

 事実、須田貞明、いや黒澤丙午は27歳で自らの命を絶ったのです。湯河原行きの10日前というから自殺の11日前には南明座を訪ね友人の山地幸雄、片桐醒夢と酒席を共にし、自殺の3日前には弟と食事をしている。この弟との食事が生きている須田貞明に関する最後の記録である。去り際の弟を呼び止め顔を暫くじっと見て「なんでもない。もういい」と言って去った須田貞明は帰らぬ人となってしまった。山野の印象によれば須田貞明は他人に弱みを見せない性格で、ドンファンで、享楽的青年であったという。

 彼はおそらく死を安息と思っていたのではないでしょうか。だからこそ、身内の死が祭られるのを嫌悪し、孤高の焼死体に感動したのでしょう。受験に失敗し人生で最初の大きな挫折を味わい、文学や映画へ傾倒し、説明者となり、順調に人気を得始めた矢先に子供を失い、さらにはトーキー争議での敗北、未来への絶望。こうしてだんだんと死への欲求が具体化していった…。

 全ては空想です。しかし、この視点から見れば貞明が得意としていた作品の傾向が納得できるのも事実なのです。

 
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