週に一度のSilent Ozuもあと三回。
 本日の演目は『東京の合唱』です。

 正直言うとあまり好きな作品ではありませんでした。ちょっと散漫な気がしていたのですね。でも見ると演るとじゃ大違いで、やっぱり小津は凄いわあと。
 日本で小津作品を上映すると、どうしても映画史上の名作を見る雰囲気と言うか、肩に力が入っている雰囲気と言うか、そういうものがあるんですね。でも初期の小津は、いや小津は生涯を通じて喜劇作家だったと思うのですよ。だから面白いシーンでは屈託なく笑って頂きたいのですが、日本だと品の良い笑いしか聞こえてこないのがどうもね。そして『東京の合唱』は典型的なそういう反応の作品だと思うのです。
 よく言えば笑いと社会性のバランスが絶妙なのですが、悪く言えば緩んでくれない。特に日本においては。

 他国で上映すると、そうした映画史的な枷からは幾分自由です。小津の事なんか何も知らない方が「毎週やってるあれ、面白いから今週も行ってみよう」ってんで来て下さる。だから笑いが無邪気で良い。結果的に小津の喜劇性がクローズアップされるんですね。

 日本に顕著な傾向なのか、それとも世界的に同じなのか分かりませんが、喜劇を評する時に「笑いだけではない」を評価する考え方があります。実際、物語としては「笑いだけじゃない」方が優れているのかもしれませんが、「笑いだけじゃない」事に意識を向けすぎると「だけじゃない」はずなのに、そもそもの「笑い」がおざなりになってしまうパターンがあります。小津の喜劇性はそうした「笑いだけじゃない」を尊ぶ考え方の基に抑圧されているような気がするのです。もって笑ってくれて良いのにと思います。そうすれば『東京の合唱』は上映の頻度が上がる気がするんですね。

 僕がこれまで見た中で一番良かった『東京の合唱』は三鷹芸術文化センターで師匠が演ったものです。あの時は伴奏音楽のオペレーションを僕がやっておりまして、しかも音響ブースが舞台袖だったので実は、見た中で、という表現は正しくなくて、正確には聞いた中でと言うべきでしょうが、それはさておき、あの時の『東京の合唱』は脳裏に焼き付いています。でも師匠のパフォーマンスとはいえ、他人の芸が、しかもある一回の場においての芸があまりに強く印象に刻まれてしまうと説明台本を書くのが大変なのです。

 耳にタコやら目にフジツボやらが出来る程に言っていますが、弁士は自分で台本を書きます。中には他人の録音から台本を起こして平気な顔してオリジナルで御座いてな顔をしてるのもいますが、そんな方でも他人の録音が無いときは自分で最低限台本を書かねばなりません。弁士の仕事の要は台本にあると言っても過言ではないのです。
台本を書くにあたって師匠からの添削等はありません。少なくとも澤登一門では。したがって台本の呼吸を知るためには日ごろから師匠や先輩の芸に触れて血中弁士密度を上げておく必要があるのですが、いざ書く段になると他人の声はノイズなんですね。自分の感性、解釈で台本を書いているのに師匠の名演がちらちらちらちら脳裏をかすめるんです。だからといって師匠の良い所だけをイタダいても歪んだパッチワークになって台本としては酷く御粗末な代物が出来上がってしまうばかり。

 早い話が、今回の台本は難産だったってことなんざんすよ。
 こういう駄洒落を入れるから良くない。

 あ、それからこれは弁士諸君に大事な情報です。米国で小津のサイレント映画を上映する際には極めて高い確率でJanus Filmsさん所蔵のプリントで上映する事になると思います。Janus Filmsさんは、かのクライテリオンと表裏一体の会社なのですが、クライテリオンから出ている『東京の合唱』のDVDとJanus Filmsさんが上映用に貸し出すフィルムには若干の違いがあります。おそらくは元は同じだったのが、どこかで上映事故が起こって直したり繋ぎ直した際に欠損及び場面の移動がなされてしまったのだと推測されます。

 五年程度のキャリアがあれば対応できる範囲の違いですし、それ以下のキャリアの弁士が海外で『東京の合唱』を説明する機会がそうそうあるとは思いませんが、念のため情報として書いておきます。
映画のフィルム上映がすたれてデジタル上映だけになったら、こういうトラブルは無くなるんでしょうね。もっとも違った種類のトラブルが出てくるでしょうが。その場でフィルムの違いに合わせて語るスキルが弁士に求められない時代は目の前なのかもしれません。
スポンサーサイト
|10/26| 活弁コメント(0)TB(0)












 管理者にだけ表示を許可する

http://kaitenkyugyou.blog87.fc2.com/tb.php/602-c7fd33ca
この記事にトラックバック(FC2ブログユーザー)