何をいまさらな本ですが、旬を過ぎた本を読むのが好きなのです。しっかし久々に辛い読書をしました。内容とか文章とか、色々あるんスけどね。電車で読んでて気分悪くなりました。不快感ではないです、乗り物酔いみたいになったのです。

 それ、ただ酔っただけでしょ。

 違うのです。『キリスト教概論』を読んでも京極夏彦を読んでも、講談全集『野狐三次』を読んでも酔った事はありません。『Deep Love』にやられました。続編が何作か出ています、んが、とてもじゃないが読めません。何というか小説になってないのですよ。普通、といってはいけないかもしれませんが、アタシの認識している小説というのは作者が伝えたい事があって、それを物語に託すのです。ところがコイツは物語に託さず、登場人物がテーマをヌケヌケと語ります。あまつさえ地の文でも被せるように人物の心理を解説します。

 読者の入る余地がねぇ。

 これが偽らざる感想です。著者はあまり本を読まない方なのかもしれません。文章が小説ではなく歌詞を読んでるような感覚になるのです。まぁ、そんな本があったってそりゃ良いんですが、問題はこれが大いにヒットしたっちゅうコトにあるんですよ。シリーズで270万部突破だそうです。借りて読んだ人もいるでしょう、古本って人もいるでしょう。大変な人数です。そいでまた大変な人数のある程度以上のパーセンテージが感動してるんです。だってね文章、下手なのよ。中学生が書いたのかい?って言いたくなるよ。どんなに素晴らしいテーマでも伝える方法が未熟なら伝わらないのが道理です。なのに大勢の人が感動している。ってことはその人達もおんなじ程度の文章力ってことです。危険ですよコレは。英語教育なんぞやっとる場合ではありません。日本語教育を徹底するべきです。日本語クライシスです。全国の国語教師は必読書といえましょう。自分の生徒がこの文章で感動してるとなれば何とかして名著に触れさせたいと思うはずであります。

 けなしてばかりは良くありんせん。ちょいと考えてみましょう。  考えました。

 本作の特徴を考慮に入れてみます。

 そもそもこの物語は携帯(ケータイ?けーたい?ケイタイ?形態?なんでもいいや、皆の持ってるアレね)配信で読まれ、口コミで広まったものらしいです。つまる所、本来は紙媒体で読むべきではなく携帯電話のディスプレイ上で読むべき文章なのです。だとすれば幾らか納得できなくもないのです。ほとんど一行毎、長くても三行に一回の改行は読み易くする為の工夫でしょうし、定期的に配信して読者を惹きつける為には援助交際、レイプ、ヤク中、心臓病、警察沙汰、エイズ死等々、通読に耐えないエピソードの数々も理解出来ます。

 そりゃそうです、オイラのような長文型の文章は携帯で読むには圧倒的に不向きです。紙とディスプレイの違い、これは考察の余地が大いにあります。紙と違ってディスプレイは発光体なのです。ただ読んでいるだけでも紙で読むより圧倒的に情報量が多い。ただでさえ情報の洪水になっているのに文章が画数の多い漢字で長文だった日にゃ誰も読みませんわね。太陽見てると疲れますね、月見てても疲れませんね、首以外は。これがディスプレイと紙の関係に相当するんではないでしょうか。

 なら過剰ともいえる改行にもキチンと理由があるってことになります。『Deep Love』の文章は稚拙です。拙劣と言ってもいい。でも新しい文章の可能性を提示したのは事実です。かの言文一致運動だって文学者が送り手の考えだけで考案し広まったのではないでしょう。背景には印刷技術の発達、出版の発展による読者層の変化があるはずです。読み手が変われば文章は変わります。当たり前のことです。文語体が口語体に変わったように、今後は携帯で読むことを前提とした文章が発達してゆくに違いありません。十年後の小説は顔文字、絵文字が入ってて当たり前になっているのです。そう、新しい文体が誕生するのです。

 その名をケー体といいます。

 これが言いたかっただけなのよ、実は…。
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