とか言う番組が始まるんですか?電車でやたらに広告を見ます。前からやってなかったかしら。良く分らん。

 オーラ、よく聞く言葉ですが実際は何なのか知りません。メディアで取り上げられるオーラという言葉のイメージとしては、人間の内面からなにやら漏れてきて、その人の本質を表していて、色彩感を伴う事が多い物のように思います。でも多分、本来はどこかの国の神話か宗教上の用語ではないのではないかと思って調べて見たらギリシア語で息の意のアウラーが語源なのだそうです。知ってみりゃ何のことはないのです。

 今日、オーラや前世といったオカルトイメージの言葉が氾濫しています。しかもそのどれもこれもが原義を置き去りにしてイメージが一人歩きしている。その為でしょう、霊感商法が後を絶たないのは。オカルトという言葉は確か隠秘学と和訳を当てていると思います。つまり隠され秘められているものですから俗人たる我々が良く分らんのは仕方がないのですね。ただ、学の字を伴っていることからも判断できるようにオカルト本体は厳然たる知の形態なのです。決して唐突にご先祖様が説教を垂れたり、理不尽な要求を神様がしてきたりする事はないのです。ただ非常に分りづらいので我々はオカルトを無秩序なものだと誤認しているのが現状です。少なくともモロモロのオカクティックな表現にはきちんとしたルーツがあるのだと言う事を知っておけば意味不明の霊感商法のは引っかからずに済むのは当然の道理なのです。

 オカルト商法の基本的なやり方は利用者を乗せる方法(ex.壺を買うとお金が儲かる。水周りを直すと家の気が良くなって病気がなおる)と不安にさせる方法(exお祓いをしてもらわないと霊が祟る。悪い相が顔に出ている)に大別されます。町で「手相を見せて下さい」って声を掛けてくる連中がいますね。彼らにワザと捕まった事があるのですが、あの人達が最初にするのは日常会話です。その会話の中で相手を乗せるべきか不安にさせるべきかを判断してるみたいです。アタシがやたらに前向きな事ばかり言ったら「とても珍しい線が出ています。私も見るのは初めてです。何十年かに一度の好機が近づいていますので、この好機をものにする為に私の先生の所に行きましょう」と言われました。

 これなどはまだまだ分り易いですが、弱っている時に追い討ちをかけるかの如くもっともらしいエピソードを並べられては引っ掛かるのは致し方ないと言えます。どうしてって、彼らはプロなのです。楽しませる話術は無くても他人を追い込む話術は芸人の比ではありません。ですが所詮は騙すための論理です。言葉のルーツも含めて考えれば綻びだらけなのです。仏教とイスラム教と神道とキリスト教の教えの都合のいい部分だけを寄せ集めたような論理が殆どだと言ってもいい。だったら言葉の原義を少し学んでおくだけで嘘が透けて見えるようになります。前世の因縁で現在の自分が不幸になっていると言われても、前世という現象が何のために設定されているかを考えれば怯える必要はなくなると言う訳。

 幽霊の正体見たり枯尾花、とはよく言ったものでオーラとやらの正体は息だと思っておけばいいのです。

 あれです、別に無闇に霊的な現象を否定したいのではありません。そういったことは実際にあると思っています。スピリチュアルメッセージの方が本物か偽者かは知りませんが、彼はパフォーマーとしては一流です。あれはあれでいいんじゃないでようか。ただ、時々メディアに出てくる神霊現象肯定論者は馬鹿が多すぎます。感情だけで霊は存在すると叫ばれても多くの人は冷めるばかりですわね。そもそも現在の科学や化学は元々オカルトだったものばかりです。幾つもの現象に対し実験を繰り返して事実を見きわめ、時代の変化を受けオーバーグラウンドに登場した知識が現代の知識ですから神霊現象肯定論者が科学者と対決する姿勢そのものが間違っているのです。勝ち目がある訳が無い。なぜならば神霊主義者が信じている超常現象が科学によって観測されない限り科学者は負けません。でも、科学によって観測されれば、それは科学の範囲で取り込める現象ですから超常現象とは呼べなくなってしまうのです。

 端的に言うと大槻教授は絶対に辞表を提出しなくていい仕組みになっているのです。それをムキになってピンボケしたような写真を持ち出して「オーラが写ってます」なんざ笑止の極みですよ、ホント。

 大体ね、ちょっと有名人に会うと「あの人はオーラがでてた」って言う人いるでしょ。勝手にそいつが感じてるだけ、んなもん出てる訳ないのです。アタシはこの数年間、仕事で何人かの一線で活躍されている方々と会いましたけど、誰も出してませんでした、オーラなんて。奥田民生さん、妻夫木聡さん、立川談志師匠、藤田まこと先生、西村由紀江さんとはお話もさせていただいてます。舞台や演技の瞬間は輝いていても楽屋や休憩時間にオーラなんぞという無駄なモノを垂れ流している人はいませんでした。奥田民生さんなぞは完全にスタッフに混ざっていて隣に座るまで気付かなかった位です。そりゃ「お前に感じる力が無いからだ」と言われりゃ一言もありません。でも、スタッフの中で変な存在感出してる奥田民生と完全にスタッフの一員みたいになって笑ったりはしゃいだりしながらプロモDVD作ってる奥田民生とどっちが素敵な奥田民生かっちゅう問題ですよ。アタシは後者のがカッコいいと思います。だからこうした一線の方々からオーラを感じなかった自分のセンスだけは自信があるのです。

   とは言いいながらオーラも含めたオカルト的な娯楽というのは非常に楽しいのも事実です。オーラ、前世、幽霊、宇宙人、予言、運命、奇跡、超能力等々、何を信じて何を信じないのかを自分に問うてみるのは自分の考えを客観的にみる一つの材料となるのではないかと思うのです。

 例えばアタクシは幽霊、お化けは居ると思ってます。宇宙人はお化けの一種だと思ってます。前世は信じません。超能力はあってもいいと思ってます。運命はありません。だからなんだって感じですが一つのゲームだと思って考えてみると面白いですよ。

 そういやお化けと幽霊の見分け方があるのですが皆さん御存じ?

 あのね幽霊ってのは美人が死んで化けて出るのが幽霊、それに対してお化けってのは生きてる時からお化けなんです。

 演芸ファンにはお馴染みの小話でした。でも考えてみれば現代の女性は勿論、男性も化粧をしている人はとても多いです。という事はみんなお化けの部類に入るんでしょう。化粧には化けるという字がちゃあんと含まれているのも愉快です。幽霊になるのは大変な素質と努力が必要なんですね。

 幽霊はさておき、かくもオカルトブームなのは、裏を返せば、現代の日本人が考える事をを怠けていると捉える事が出来ます。様々な学問が豊富な知の刺激を提供しているのにも係わらず、メディアを通して流布しているオカルト的なもの、つまり筋道の無い結論ありきの人生相談に多くの人が飛びついているのには若干の危機感を感じるのです。

 誰しもが自分は何者かという事を知りたいのです。それにオカルト的な人生相談は答えを与えてくれます。しかし、しかしです、そもそもあらゆる宗教も学問も芸術も、知的活動というのは押し並べて「自分とは何者なのか」という疑問に答える為の知的作業に他ならんとオイラは思っています。

 私見だらけのこのブログでも最大の私見です。暴論とも言いますが、こんな意味不明の文章をここまで読んでいる人はもはや一人も居ないと思いますので、あえて書いた次第。

 自分とは何なのかを知るのが最大の目的とする根拠は至る所に見出せます。物理や化学は世界を外面的に捉えてその中に位置する「私」を発見する学問と言えましょうし、反対に哲学、心理学は内面から攻める事で「私」を発見しようとする試みです。演劇でいえば代表的な演技論にスタニスラフスキーシステムというのがあって、これは役者が役と同一になる同化の理論です。役と同化することでもう一つの人間に成る作業は「私」を探す作業です。もう一つの演技論にブレヒトの異化論がありまして、こっちは役者が役を別人格として観察する演技論です。完全な客体の想定は紛れも無く人間観察、「私」の観察です。仏教(のはずです)では梵我一如という考えで「私」を想定しています。これはざっくり言うと世界と私は同一であるという考え方ですね。ついでに万が一マンガアニメファンの方が此処まで辿り着いた時の為に書いておきますが『鋼の錬金術師』における「一は全、全は一」という言葉も梵我一如と同義です。あの漫画が流行っているのは解ります。「私」とは、命とは何かという命題に果敢に挑んでいて、しかもエンタテインメントしている稀有な作品なのですから。

 続けます。E=mc^2が偉大なのはこの式で世界を読み解く作業が一気に前進したからです。あ、ちなみに特殊相対性理論ね。エネルギーとは何であるかを説明した。この世に満ち満ちている力の正体が判ったのですから大発見です。哲学史上の最大の発見といってもいいデカルトの「吾思う、故に吾在り(コギト・エルゴ・スム)」というロジックも同様です。この命題によって人間は「私」が何者かは解らないけれど、「私」が確かに存在している事は確認できたのです。これも凄い。

 どれもこれも凄い考えばかりです。これらは当然ですが言語を介して我々に知覚されます。この一点で言語が人間にとっていかに重要なものかが知れるというものです。念のために言っておきますが文字が扱えない、言葉が認識できない人が居たとして、その人が劣っているという事ではありません。言語を保有している種族という点で人間はある種の優位を獲得しているのは認めない訳にはいかない事実だという事です。

 私にとって身近な話にします。弁士が嫌いな映画ファンが「無声映画は映像で完成しているのだから、弁士など存在がそもそも不要だ」という意見があります。この意見には実は温厚なウチの師匠が完全に反対しているのが頼もしいのです。すなわち「人間が言語から逃れられる筈が無い」という考えが師匠にはあるのです。そうなのです、言語から人はそうそう逃れられません。言語を介さずに「吾思う、故に吾在り」を実感できますか?出来んと思います。弁士というパフォーマーが不要という理屈は理解できます。しかし、無声映画が言語を完全に拝した表現であると考えて、それゆえに「弁士=言語」は不要だとするなら、多分にロマンティックな乙女の白昼夢に等しき理念だと考えざるを得ません。良い弁士、悪い弁士の論議は別よ当たり前だけど。

 映画だって話芸だって「私」とは何かを膨大な物語の中から膨大な人が膨大な時間を費やして探しているのです。あたかも永遠に答えが出ない事が予想されながら、スーパーコンピューターが休まず円周率を計算し続けているようなモノです。考えてみれば円周率も不思議な数字で、この世の物質は放っておくと丸や円になっていくものです。それは安定性が高い形態だからだそうですが、皆がなりたい丸を表す数字が結論として出ないというのは我々に何かを示唆しているようではありませんか。といっても黄金比というのも有りますね。こっちは明確な数字が出てるか…。何でですかな?

 とか考えてると、オーラなんか馬鹿馬鹿しくてねぇ。

 ま、いいや、今日は良く書いた。
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|04/20| もやもやコメント(0)TB(0)












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