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 とりあえず書いてみましょう。
 書かなければ始まらないのですから。
 先ずは我が家のお猫様です。
猫と本棚

 写真のタイトルは猫と本棚です。ウチの猫はこないだ病気をしました。いい歳ですので危ないかな、と家族が覚悟したのですが、今では元気にしています。ここ数年はやたら甘えになりました。人間も猫も歳を取ると幼児退行するのでしょう。にしても猫とは不思議な生き物で、存在そのものが妙に詩的であります。猫と○○と付けるだけで作品化してしまうのは、ひとえに猫の力でしょう。試してみましょう。

 猫と私…深みがあります。

 猫とコバンザメ…複雑な事情がありそうです。

 猫と忍者…凄い猫がいるのか、猫の前では優しくなる忍者のお話

 猫と大統領…政治抗争も猫の手で解決

 猫と文房具、猫とカイガラムシ、猫とメイドさん、猫と炒飯、猫と相対性理論、猫とスパイダーマン、猫と紙、猫とDVD、猫と仏壇、猫と正夢、猫とイスラマバード、猫と米、猫とコネ、猫と金、猫と杵、猫と屋根

 吾輩は猫である…こりゃ違った。

 ウチの師匠も猫好きです。入門資格も難しく考えず、猫好きかどうかを基準にするのが良いかもしれないと話した事があります。

 最初の写真ですが、猫を撮ろうとしたらカメラに向かって突っ込んできました。 突っ込む猫

 それがこれ。怖いですね。

 おお、今日は普通のブログっぽいです。何にも悪態をついてない所が素晴らしい。でも、普段の悪態だって、随分抑えてるんです、アタシ。

 悪態といえば、最初の猫と本棚の写真ですが、猫の背後にあるのが私の本棚の一部です。あの本棚からブログ上や日常会話における暴言、虚言、妄言が生まれてくるのです。実に罪深い本棚と言わざぁなりません。様々な本が詰め込んでありまして、もしここで書くことが無くなって、それでも続ける必要がある時が来たら(来るとは思えませんが)、本棚にある本を一冊づつ紹介すれば数年は持ちます。話題には事欠かないのです。試みに一冊手にとってみましょう。

 『ザ・ストリッパー』これはイカン。イカンことはホントは無いけどよしときましょう。では代わりに…『理想の声に近づく本』か、読んだ事ねぇや。駄目だ。ぢゃあ『ドグラ・マグラ』が出てきました。高校時代に休み時間を利用して読破しましたっけ。友達が出来ないのも肯ける行動です、ボツ。ダメ押しでもう一冊『世界神話事典』何を知りたいんでしょうかアタシは。どうもマトモじゃありません。

本棚

 本当に持ってる本ばかりです。何も見せる必要は無いけれど。

 こんな事ばかり書いていて、さてはオヌシ暇であるなと思われたら、まあ正解なのですが、DVDのコピーなどをしている最中なので一応仕事中でもあります。暇なりにやらねばならんことがあるのは、私が貧しい証拠ですね。でも暇に任せて文章を、たとえ駄文なりと書いて過ごすと言うのは、中々に高尚な趣味でありましょう。徒然なるままに心にうつりゆくよしなし事を書いとるんですから、兼好法師だ、これは。そう思えば今の世に兼好法師の何と多い事よ。あちらもこちらもケンコウでして、ラジオ体操の会場のようです。

 書くという作業は多くの人にとってフラストレーションの解放に繋がるのでしょうか。でないと現在の誰も彼もがブログやらミクシィ(表記これで合ってる?)での日記やらで自分を発表したりはしません。毎日ブログの更新はマメにしている人で、学生時代に原稿用紙を埋めるのが苦痛だった人も少なくないでしょう。でも、好き勝手書いて、それに反響があるのは誰でも嬉しいのです、きっと。

 書くのが嬉しいで思い出すのですが、芸人・芸能人はちょっと売れると、どうして映画評をやりたがるのでしょう。テレビ、ラジオ、雑誌を見たり聞いたりしていると映画紹介コーナーは沢山あります。そんなに世間の人は映画を観てるんでしょうか。そんなに映画が好きなんでしょうか。解りませんです。映画が好きだと評したくなるんですかね。でもあんまり良いなと思わせる批評はありません。それこそ個人の日記やブログや、その程度の媒体で載せるべき内容のものばかりな気がします。これで原稿料貰えるの?ってなもんです。いい映画を選ぶのも結構ですが、これだけ映画評が溢れかえっているのですから、優秀なる批評を集めた本なぞが出ても良いのではないでしょうか。プロの批評家も芸能人の感想文も分け隔てなく読んで、その中で選考すれば面白い本になると思うのですが如何?ちなみにアタクシは映画をあんまり観てないので映画評はしません。てか出来ない。ここで書いてるのはアタシにとっては映画評ではないのです。

 本日はいつにもまして文章が飛んでます。のわりに殊勝なのは訳がありまして、この一週間位、ずっと頭痛がするのです。昨日辺りから治まってきましたがまだ痛いのです。ピークは実は貞橘との会の日でした。
知人・友人には折りに触れて話しているのですが、片岡家は代々寿命が短いのです。母方は長いのですが、私は容貌を見ても片岡の血が圧倒的に濃いので早死にでしょう。片岡の男性は大体50代半ばで死んでます。父親も数年前に死んじゃったのです。で、自分は今年30になる。すると、俺はもう半分生きたな、と思ってしまうのです。のみならずチト具合が悪いと、何とはなしに死を意識するようになってきています。たかが頭痛ですが一週間続くと、やっぱり考えるのです。なので少しおとなしいのです。この死生観(と言う程大したものではないけれど)を話すときに困るのは、話しているコチラは軽く話しているのに、聞いた側が慰めてくれると言う事です。最も多いのが「そういう人に限って長生きするから大丈夫だよ」ってやつ。別にアタクシは寿命が短いのを悲観してるのではないのです。だから気軽にあと半分と思ってるのですが、その意図は中々伝わらないのが難点です。そりゃ、話し相手が寿命が短い、などと言い出したら力付ける位しか普通はないのでしょうけども。

 とまあ、そんな事で悲観はしてないのですが、僅かなりとも死を意識すると人間丸くなります。今がその時期と言う訳。でも頭痛はホント、もしかしたら一月後には死んじゃって居ないかもしれない。

 誰でもそうだけれど。

 死ぬのはあまり怖くありませんが、ただ苦しいのは嫌です。先日の歯痛ですら身の削れる思いでしたから、例えばガンになってモルヒネ漬けはやっぱり辛いだろうなぁ、少なくとも延命措置は絶対嫌だなぁとは考えてます。前も書いたかも知れませんが、高齢化社会を迎えるに当たっては安楽死を認めるべきだと思うのです。それこそ死生観の問題になるのでアタシ如きが語るべきではないのでしょうが、無理矢理生かされているのは、生きている事にはなりません。それから前向きな自殺ってのもあってもいいのかも知れないと思う時もあります。80歳を過ぎたら死ぬ権利を与えてあげるとかね。単純に自分が80越えて生きてる状況が想像できていないから言える事ではあるんですけれど。長く生きれば良いってもんでもないじゃないですか。と、書こうとしたら「長生きも芸のうち」という芸界の格言があったのを思い出しました。そうかもしれません。

 自分が長生きするとは思ってませんが、今わの際には生にしがみつく自分は想像できます。そんあ程度です、アタシは。

 つまり病気は怖いのです。苦しい時間が長いくらいなら死にたいと思うクチです。肉体的な苦痛も嫌ですが、精神的な苦痛も嫌です。私の周囲には鬱の人が数人居ますが、これにもなりたくない。私はあっさり飲み込まれてしまうでしょうから。

 鬱から発生する余談ですが、落語に『真景累ヶ淵』と言う作品があります。落語中興の祖と謳われる三遊亭圓朝師による作でして、今度『怪談』と言う題で映画化されるのですが、この噺を聴く度に鬱の物語だと思ってしまうのです。特に豊志賀なぞは私の知る鬱の症状と酷似していて、恐ろしい位でした。思うに豊志賀の顔に出来た腫れ物は、そこまで大きくて気味の悪い物ではなかったのです。ただ、豊志賀には、そう見えたのです。新吉は腫れ物が怖かったのではなく、典型的な看病疲れで飛び出したのです。その新吉もやがて亡霊に悩まされます、しかしこれとて心が見せている亡霊なのです。彼の心も又、病んでいたのでしょう。

 何の事だか解らないと思いますが、解らない人は日本人の教養だと思って『真景累ヶ淵』を読むなり聴くなりされるのをお勧めします。

 『真景累ヶ淵』の真景と言う言葉が神経から転じたものであるのはつとに有名です。明治の頃、神経と言う言葉が流行ったのだそうでして「そいつぁ神経の所為だよ」なんて言ってたんだそうです。『真景累ヶ淵』の幽霊は神経が見せたもの、つまり気の所為だという批評もあります。しかしながら『真景累ヶ淵』を鬱の物語と捉えるならば幽霊=神経の作用という単純な構図から作品はもう一歩深化します。すなわち、精神病が現代のように認知されていない時期に精神病の物語を描こうとすれば、必然的に他の何かにテーマを移す必要がある。その何かが怪談であり、因縁譚であったと読めるのです。少なくともそうしたオブラートに包まなければ神経の物語は庶民の娯楽には成り得ません。圓朝師がそこまで意識していたかは知りませんが、偶発的にもせよ、近代の病理を描いていたからこそ『真景累ヶ淵』は今日に残っているのではないでしょうか。
桂歌丸 真景累ヶ淵


 『真景累ヶ淵』は様々な師匠の録音が発売されています。志ん朝師匠、圓生師匠、歌丸師匠ならお近くの図書館にもあるでしょう。映画に合わせて聴いてみるのも良いかもしれません。同じ根多でも語る人によって違うのが話芸の愉しみです。落語しかり講談しかり、活弁もまたしかり。圓朝作品は特に著作権云々ではなく、様々な演者によって語り継がれてきた事に価値があるのです。著作権は大事ですが、文化を守るのも大事です。この文化と著作権が上手い事リンクすれば理想なのですが、文化は感覚的に捉えられ、著作権は資本に捕らえられて二つが歩調を合わせるのが難しいのが現状です。

 おまけに著作権に五月蝿い会社ほど法律を後ろ盾に無茶をします。世界的に著作権に関して喧しい、某ネズミの国の会社はジャングル大帝をアレしたのは歴然ですし、国内の一番有名なミュージカルを中心にしている劇団も今度公開される作品のキャッチコピーが「日本が、魔法にかかる」です。それってハリィ・ポッタァではあぁりませんか。そもそも、この劇団はわざわざ、ジャングル大帝をアレした映画のミュージカルを買ってきて日本人キャストで公開しているのです。ならせめて『ヂャングル大帝』とかのタイトルにすればいいに。日本人のプライドは無ぇのかね。それからそれから、黒澤作品でおなじみの映画会社がありますが、ここが昔、権利を無視して出したビデオを私持ってます。

 どこも著作権に五月蝿い事で有名な会社ばかりです。不思議な事があるものでござんす。

 話があっちゃこっちゃ行ってるついでに書いておきましょう。一昨日ね、10年位前のAVを観たの。アダルトビデオね、念のため。したらアナタ、モザイクが濃いのなんのって、モザイクと言うより壁でした。気付かない内に随分規制緩和されていたのですね。けれど、昔はあの壁でもそれなりにドキドキしていたのです。人間は刺激に慣れる動物です。それは生きる為の工夫ですが、細やかな感動が摩滅してしまう現実も含んでいるのですから寂しい事とも言えます。

 余談のさらに余談ですが、今、昔のAVをDVDにして再販するとある程度の枚数が確実にハケるんだそうです。ユーザーは歴史を知りたくて買うのではありません。懐かしくて買うのです。いよいよAVもノスタルジーで見る時代になってきたというわけ。あと何十年かすると老人ホームのじいさん達が昔好きだったAV女優の話で盛り上がったりする時代が来るのです。何と微笑ましい光景でしょうか。以前バイトしてた所に「AVは見ません!」という学生が居ました。将来寂しい思いをするからこっそり見ておきなさい、とアドバイスしたのですが、彼は見ませんでした。残念な事です。

 人前に裸を晒すのはリスキーな仕事です。せめて辛い思いをしないでいて欲しいと、他人ながら彼女たちには思うのです。余計なお世話ですね。でも、漏れ聞くところによると、AV女優で売れるとやっぱり後の生活が狂う人が多いみたい。何度も引越しってパターンも多いそうです。出演を考えている方は、その辺気をつけて下され。

 まだまだ、いくらでも書けるのです。でもこの位にしておきましょ。
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