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 立て続けに書いておりますが資料をまとめるのも仕事のウチであります。いつかきちんとした形にしたいと思っているのですが、いつになることやら…。それにしても弁士というのは記録が少ない。分るのは芸名だけという方が殆どなのです。弁士のご遺族ご親類の方、もしも拙文を御覧になったら是非ご一報を頂きたいものです。そもそも最盛期(大正末期)には全国に約8000人もの弁士がいたそうですから、親類を辿れば弁士が見つかる可能性はどなたにもあるのです。小さなエピソードといえど貴重な映画史、芸能史になり得ます。

 さて、では本題の伍東宏郎先生であります。艶聞と最後という重い話で前回は締めくくりましたが、サテ今回は暗くならずに済むかどうか。とりあえず弁士失業後の事に触れてみることにします  映画のトーキー化はある意味革命であり、他方では必然であった。多くの映画史がトーキー発明にページ数を割いているのでここでは詳述しないが日本場合諸外国とは違い活動写真弁士という人力トーキーが映画興行初期から発明されていた為に発声映画導入の混乱は一種独特のものだった。余談だが海外におけるトーキー混乱をまことに楽しく、かつ見事に描いているのが『雨に唄えば』である。日本ではこういった楽しい映画史映画が少ない気がするが、まあそれはそれとして。で、日本の場合だが弁士によるストが起きたのがトーキーへ移行する時期の特徴なのは申すまでも無い。ストの失敗の責任をとり自殺した(と単純に言い切れないのですが)説明者に須田貞明がおり、かれは黒澤明の実兄として今日にその名を残している。これもまた余談。
 さて伍東であるが、トーキーで失業した後は大阪の解説者を中心に劇団を組み役者としての活動を始めた。劇団名は「笑いの百貨店」といって座長は高橋鶴童、以下座員に里見義郎、木田牧童、人見静一郎、泉詩郎、石井春童、森口ススム、そして伍東宏郎、その他本職の役者加えてのスタートであったが、初回公演こそ成功したものの役モメですぐに分裂となった。元来役者を志していた訳ではなかった伍東が次に選んだのは講談だった。弁士の実績を活かしての(というよりは数少ない活かせる)職業に就き新大衆講談の肩書きで数枚のレコードを残しているが、これは和洋合奏入りで全くの弁士口調であり、講談と呼ぶには若干のためらいを憶える内容である。そうした意味においても講談の歴史に伍東は名を残していない。とすれば講釈師としては成功しなかったのと考えるのが妥当であろう。「笑いの百貨店」の舞台でも弁士調で台詞を言って喝采を浴びていたというから伍東は良くも悪くも映画解説が天職だったということか。
 その後の人生は前回書いた如くであるが、いまひとつ余談を加える。実は伍東には二代目がいる。戦後の巡回上映のポスターに二代目の名前を見ることが出来るが、初代との関係は一切不明。戦後の巡回上映では徳川無声だの牧野五郎だの怪しい名前の弁士が散見されるからその類かもしれない。某氏がこの二代目の録音を持っているとの噂もある。

 伍東宏郎師についてはもう少しエピソードがあるのです。でも逆に言えば一世を風靡した方ですらこの程度しか資料が残っていないのです。弁士研究がいかに困難かご理解頂ければ幸甚でアリマス。

 
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