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名人 小林信彦

 『名人 志ん生、そして志ん朝』小林信彦 
 
 電車で読む本が無かったので急遽購入して読んだ本。

 アタシは志ん朝師匠には間に合ってます。ただそんなに多くの高座には接してません。まだまだお元気で、いずれ志ん生も襲名するのかな、と思ってました。焦って聴きに行く事もなかろうと甘く見てたんですね。だから驚きました、志ん朝師匠がお亡くなりになった時には。思わず声が出ましたもん。

 亡くなってしまった以上、どう望んでも実物に触れる事は叶いません。その人の記録を見聞きし、その人について語られる言葉に耳を傾けるしかないのです。特に本人が記録を余り残していない場合は、他者の言葉は非常に大きな意味を持ちます。しかし、そうした言葉の中には「俺は○○を良く知ってるんだ」式の優越感を多分に含んだ自慢話も少なくありません。少なくないのですが、まぁ仕方の無いことでしょう。アタシもいずれやるでしょうし。

 とはいえ、どうしても合わない意見があるのも事実でして、本書がつまりそうだったのです。著者が志ん朝師匠にいたく傾倒してるのは伝わってきます。その気持ちは解ります。それだけ強い魅力を持った師匠でした。ただ、本として出すには好きが過ぎます。雑誌に載せるコラムらな良いでしょうが、落語本として出すには未整理な思いを重ねた文章が幾つも並ぶ構成は鼻につくし、チト冷めます。

 よ・う・す・る・に、この本の内容には共感しかねるって事なんですけどね。一芸人、一落語ファンとしてはどうしても共感できない。読み進めていくうちに何に拒否反応を示しているのかが明確になってくるのです。以下『』内、引用。


 『「歌笑純情詩集」なるふざけたモノローグは、一度は笑えても、あたが続かない。歌笑が突出したのは、他が混乱していたからで、歌笑、痴楽、小きん(のちの五代目小さん)が若手三羽烏だったというから、レヴェルが低い』

 『テレビで桂米朝が、
 「東京の落語界は、ずいぶん淋しくなるでしょう」
  と言っていたが、言いかえれば、東京落語は終わったということである。』

 『関西の落語界は桂米朝という指導者のもとで、これからのびてゆくのでは、と思われる。
  しかし、東京はムリだ。江戸弁といわぬまでも、東京弁(アクセントほか)が怪しい人々がいくら集まっても大衆を魅了するこつはできないのだから』

 『地方から出てきた学生が、オチケンに入ると、まず、方言、訛りを抜かなければならない。その上で東京言葉とはいわないまでも、標準語を習得する。落語のどこがすばらしいのか、よくわからないから、理屈を考える』

 悪い部分ばっかり抜いてます。実際はもう少し読める本です。ただ、この人、評論家ですぜ。歌笑の人気を戦後の混乱だけで片付けるのは余りにも乱暴ですし、「淋しくなる」がどう言い換えたら「終わった」になると言うのか。米朝師匠こそいい迷惑だろうと思うのです。贔屓の芸人が世を去って何を思おうが自由ですが、少なくともこんな程度の考察で金を取ってはイカンと思うのでアリンス。

 志ん朝師匠は後進の指導に力を入れていたそうです。

 志ん朝師匠が亡くなった時に「志ん朝死して落語は死んだ」という的外れな記事が少なかった事はファンの喜びでした。

 それなのに、志ん朝ファンを自認する著者が得意になって志ん朝師匠の死と江戸落語の終焉を結び付けている事に堪らない寂寥感を感じるのです。アタシはこの場所で活弁界について愚痴々々言ってますが、それは活弁が何とかなると思えばこその発言です。少なくとも10人や20人は食えるだけの内容は活弁と無声映画は持っています。だから愚痴るのです。ただ好きな芸人が死んだと言うだけで、その芸能が終わったなどという文章は日記帳に記すべき物です。繰り返して言います、こんなんで金取るな。ああ、羨ましい。ああ、悲しい。
|04/22| 読書コメント(0)TB(0)


 何をいまさらな本ですが、旬を過ぎた本を読むのが好きなのです。しっかし久々に辛い読書をしました。内容とか文章とか、色々あるんスけどね。電車で読んでて気分悪くなりました。不快感ではないです、乗り物酔いみたいになったのです。

 それ、ただ酔っただけでしょ。

 違うのです。『キリスト教概論』を読んでも京極夏彦を読んでも、講談全集『野狐三次』を読んでも酔った事はありません。『Deep Love』にやられました。続編が何作か出ています、んが、とてもじゃないが読めません。何というか小説になってないのですよ。普通、といってはいけないかもしれませんが、アタシの認識している小説というのは作者が伝えたい事があって、それを物語に託すのです。ところがコイツは物語に託さず、登場人物がテーマをヌケヌケと語ります。あまつさえ地の文でも被せるように人物の心理を解説します。

 読者の入る余地がねぇ。

 これが偽らざる感想です。著者はあまり本を読まない方なのかもしれません。文章が小説ではなく歌詞を読んでるような感覚になるのです。まぁ、そんな本があったってそりゃ良いんですが、問題はこれが大いにヒットしたっちゅうコトにあるんですよ。シリーズで270万部突破だそうです。借りて読んだ人もいるでしょう、古本って人もいるでしょう。大変な人数です。そいでまた大変な人数のある程度以上のパーセンテージが感動してるんです。だってね文章、下手なのよ。中学生が書いたのかい?って言いたくなるよ。どんなに素晴らしいテーマでも伝える方法が未熟なら伝わらないのが道理です。なのに大勢の人が感動している。ってことはその人達もおんなじ程度の文章力ってことです。危険ですよコレは。英語教育なんぞやっとる場合ではありません。日本語教育を徹底するべきです。日本語クライシスです。全国の国語教師は必読書といえましょう。自分の生徒がこの文章で感動してるとなれば何とかして名著に触れさせたいと思うはずであります。

 けなしてばかりは良くありんせん。ちょいと考えてみましょう。
|04/01| 読書コメント(0)TB(0)
LPレコードの逆襲

『LPレコードの逆襲 CDは音楽の楽しみを奪った』かまち潤・著 平成3年 毎日新聞社 を読みました。

 古い本です。発行が古いのではなくて、書いてあることが古いのです。本書はCDがLPに取って代わりつつある時代に書かれたもので、著者はタイトルからも察せられる通りLPレコードが大好きな方です。その為に文中でも建前としては「CD、LP共に長所と短所があり、特性を見きわめて利用するのが望ましい}としていながら全体の論調はあくまでLP寄りでして、アナログ愛好家がいかにCDに対して強い抵抗感を感じていたかを知るには絶好の書と言えます。

 例えばLPに対しては操作や設置の面倒さを認めながらも、手をかける事が愛情を育てる方法であると論じていながら、CDに対しては手軽さを認めつつ、小さくて探しづらい、これではライトユーザーは音楽から離れてしまうと危惧しています。

 LPでは大事な事がCDでは不満になってしまう。見事な論理の破綻でありまして、こうした破綻が随所に見られるのが本書の凄いところです。だがしかし、そこんとこを気安く否定しちゃあイケません。だって誰でも好きな物を守る時には論理がおかしくなってしまうぢゃないですか。愛すべきものを弁護するためには理屈ではない、情熱だ!とこの本は叫んでいるように思えるのです。

 とはいっても結局LPレコードの逆襲はなくCDに音楽業界は制圧されてしまったのですけれど。
|03/26| 読書コメント(0)TB(0)
黒澤明

『わが青春の黒沢明』植草圭之助
『蝦蟇の油 自伝のようなもの』黒澤明

 上記2冊を中心にして資料を読んだり国会図書館に行って古新聞のコピーを撮ったりしてきています。ある映画説明者についてここで書くためです。そもそもブログなんぞという明らかに自分に向いていない世界に手を出したのは、往年の弁士の記録を残したいが為でして、基本的に全く無益な私の文章もこと弁士の記録に関しては幾らか意味があるだろうと思っているのです。傲慢ではなく弁士の知識に関しては片岡一郎、既に日本屈指の存在なのです。ただそれは私が深い知識を持っているからではなく、誰も真剣に弁士の記録と格闘していないというだけの話なのです。嘆かわしい事ですが仕方がないので自分の為に、また興味を持った一部の方の為になるべく多くの資料を総合した形で弁士の物語を少しづつ記していこうとしているのが本ブログの正体なのです。現状では月に一人が限界です。今後はもっと難しくなるでしょう。

 殊に今度書く予定の弁士については、もっと充実した研究がなされなければおかしい存在なのです。しかし映画史はこの先人を、半ば意図的に視線から外してきたきらいがあります。無声映画末期の栄光と破滅を体現した彼について僭越ながら書きます。多分来週中に。

 さて関係者諸君に問題です。来週書こうとしている説明者とは一体誰でしょう?
 
 簡単ですね。

 分らなかったら弁士なんぞ辞めちまえ。
|03/22| 読書コメント(0)TB(0)
庭先案内 2巻

 ずっと好きなものがあります、多くの人には。ワタクシにとって、このマンガの作者須藤真澄さんという方はそうした対象です。高校時代からだから13年の間ずっとこの方の作品を愛読してきました。なぜ、かくも須藤作品に魅かれるかと申せば、代わりが居ないからとしかいい様がないのです。芸人でも作家でも代わりの無い存在感がとても重要です、私には。それは私が小さい頃からずっと変わり者と周りに言われてきた事に起因しているに違いないのです。変わり者で輪に入るのが苦手だった少年は代わりのない個性を持つ人に強く憧れる様になっていってしまったのです。発売直後に購入してその日の中に読んだのですが、今頃それについて書きます。つまり書きたかったってことですやね。

 須藤真澄作品は大別すると二つに分けられます。一つが『アクアリウム』や『電気ブラン』系統のファンタジードラマ、もう一つが『ゆず』や『おさんぽ大王』のような日常ギャグマンガです。本書『庭先案内』はファンタジーの方です。須藤作品におけるファンタジーの構成はいつも同じです。
 
 日常にふと異物が紛れ込んで主人公は動揺するのですが、気を落ち着けて異物を受け入れると、そこには忘れていた大事ものがあった。

 言葉にすればこの繰り返しなのですが、どの作品もそれぞれに独特の世界観を持っています。全てきちんと違う話になっている。これは描きたくても描けません。優れているのです、作者の目線が。失われてゆくもの、失われてゆきつつあるものに対しての、どこまでも深い視線が同じ構成の作品に多彩な変化を与えていると、勝手に思っています。

 
|03/14| 読書コメント(0)TB(0)